私が怖いのは人間だ。
幽霊よりも人間のほうが怖いとか、そういうことではなく、単純に私が臆病者で、人とのコミュニケーションが苦手だから、怖いと感じている。
これまで私に接触を持とうとしてきてくれた人たちを私はことごとく裏切ってきた。それがどんなにひどいことであったか、今にしてようやく後悔をしている。
過去の私は底の浅い人間で、人の優しさとか気遣いを察する能力に乏しかった。今もそれは改善されていないが、それでも自覚的になっただけ、マシな人間になれていると信じている。
少しだけ思慮深くなった私は過去の愚かで馬鹿な私が憎い。そして、過去の私の恥を思うほど、他人が怖くなっていく。みんなが何を考えているか、私のことをどう思っているか分からなくて怖い。あのときの私を他人はどう思っていたか。今の私を他人はどう思っているか。過去と現在がぐちゃぐちゃになって、私に牙を向く。
かつて私は過去に仕出かした出来事を反芻することで、少しでもマシな人間になろうとしていた。しかしこれは失敗だった。ところ構わず、関連する出来事や言葉を見たり聞いたりすると、仕出かしたときの感情が溢れて制御できなくなるようになった。仕出かした出来事には必ず他人が関わっていたから、より人とのコミュニケーションが不得意になった。人間が怖い、怖がりな人間が完成した。
もし、私が過去の私にアドバイスをするならば、失敗は反省したらすぐ忘れろということだろうか。
怖がりな人間は自分だけでなく、周囲にも悪影響を与える。お前が本当に良き人間になりたいのなら、卑屈ではなく謙虚に生きなさい。そして、周囲の人間に親切でありなさい。
今の私にはどちらも遠い。理想だけが高い。落差が大きいほど、人は落ちることを怖がる。
もはや、理想を下げることだけが、私の精神の安寧に繋がるのだろうか。答えはまだ出ていない。
星が溢れるプラネタリウム
安らかという言葉には死のイメージがあるから、安らかな瞳となると、死を目の前にした人の、達観と諦念を滲ませたやさしい色の瞳を思う。
ずっと隣で。
そういう相手がほしい。
もっと知りたいこと、推しのこと。
SNSでは私より推しに詳しい人がいる。
私もその人たちと同じくらいの知識と見識がほしい。
でも私はめんどくさがりだから、調べものはすぐ飽きてしまう。調べるための方法を調べることすらできない。
だから、知りたいという欲はいつも後回しにされて、SNSで偶然目に入った情報で満足しようとしている。
これは不健康だ。人は自分で知りたいことを調べて、まとめて、考えてこそ、自分の自分らしい意見が持てるのだ。
と、息巻いて本を開くものの、やっぱりめんどうで途中でやめちゃう。
調べることにも才能もしくは適性が必要らしい。