深海のようだと思った。
深海に潜ったことはないから、あくまで「のようだ」としか言えなかったが、とにかく修一にはそう思えた。
貴一は転校生だった。
中学二年の夏に、東京から引っ越してきた。
地元から一度も出たことのない修一にとって、貴一は格好つけた、いけすかない余所者だった。
「へぇ、修一っていうんだ。」
貴一は初めてペアを組んだ体育の授業でそうつぶやいて修一の目を正面から見すえた。
深海のようだ。
貴一の瞳は大きく、黒く、それでいていやに澄んでまっすぐだった。
「俺は貴一。俺らどっちも名前に『一』がつくんだな。これって結構珍しいんじゃね?」
貴一のまったく方言の混じらない標準語は耳に新しく、修一はつられるように「珍しい、かも」とつぶやいた。
「よろしくな、シュウ。」
貴一はそう言って屈託のない笑顔を見せた。
修一と貴一は、ベタベタとつるむわけでもなく、かと言って接しないわけでもないという距離感の友人のまま、同じ地元の高校へ進学した。
貴一の行動がおかしくなったのは、一年生も終わりかけの冬。
「なんで学校こんの。」
修一はある時面と向かって貴一に尋ねた。
「んー…。」
貴一はそれには答えずにぼんやりと道路沿いの細い川を眺めていた。
「お前おらんとさ、学校もあんまおもんないんやけど。」
修一はぶっきらぼうに貴一の背中に向かってつぶやいた。
「そんなこと言ってくれたのシュウが初めてやな。」
貴一の標準語混じりの関西弁はいつもどおり快活で、だからこそなんの真意も汲み取れなかった。
「俺もシュウと会えんとつまらんな。」
「じゃあ、…学校来いよ。」
貴一の顔には真新しい大きな青あざが残っていた。クラスや部活の誰もが何も聞かないうちに、あざや傷は増えていき、それに反比例するように貴一の出席率は下がっていった。
修一はそれについて触れることはなかった。それとなく水を向けても貴一は答えようとはしなかったし、それは紛れもなく「これ以上何も聞いてくれるな」という意味に他ならなかったからだ。
「……俺も行きたいんやけど…、」
貴一は言いよどんで下を向き、唇を噛んだ。何かを迷っているのが見てとれた。
修一は言葉を継ぐのをこらえ、待った。
だが、貴一はその一瞬で決断したようだった。きっぱりと顔を上げ、そしてその目は初めて見たときと同じく真っ黒に澄んでいた。
「……明日は行くからさ。」
貴一はその時、もう彼の中に自分はいないのだと悟った。自分も。他の友人やクラスメイトや、担任教師も………もしかしたら貴一本人すらも。
いや、そもそもはじめから彼の中には誰もいなかったのかもしれない。真っ暗な世界。何も存在せず、暗闇だけがすべてを満たしている。音も、光も、温度も、時間もない。始まりも、終わりもない。
「じゃあ、………また明日。」
貴一はそう言って軽く手を上げ、微笑んだ。
修一は何も言えず、その場で呆然と立ち尽くした。
このままでは貴一は行ってしまい、そしてそのまま帰ってこないのがわかっているのに、声も出ず体も動かせなかった。
あれから何十年も経った今も修一は夢を見る。
真っ黒に澄んだ瞳。誰も何も映らない、完全な孤独と静寂。
そして、俺はいつまでもあいつと同じ場所には行けないだろう、と確信する。
眠りは深く、深く、深くなり、そして夜に沈んでいく。その中には誰も何も存在せず、暗闇だけがすべてを満たしている。