昨日へのさよなら、明日との出会い
「今日の調子はどう?」
「元気だったらこんなところにいないよ」
「そりゃそうだね」
病室のベッド、白いシーツの上に腰掛けて窓の外を見つめる。
今日の担当看護師さんも、私の憎まれ口に笑顔で対応する。
私なんてずっと可愛いものなんだろうな、と察した。
お爺さんの車椅子を押しながら、その人にずっと文句を言われていたのを見たことがある。
それでも看護師さんたちの笑顔が崩れるところを見たことがなかった。
「いつ学校に行けるの?」
「次の検査結果が良かったらね。それまでちゃんとご飯も食べて、お薬も飲まないと」
「…どうせまた入院するのに」
小さい頃から入院を繰り返して、学校に行く日よりも病院で過ごす方が長くなった。
最後に走り回ったのはいつだったっけ?
友達と帰り道を歩いたのは?
季節なんて関係ない、管理されたこの空間にはもう飽きている。
「こら!私と一緒にスイーツ巡りする約束はどうした!」
「いった!!」
背中をバシンッと容赦なく叩かれた。
振り返ると同室者の彼女がニヤリと悪戯に笑いながら立っていた。
私と同じで何度も入退院を繰り返す彼女とはとっくに顔見知りで、お互い遠慮なんてしなくなった。
「ちょっ、と!痛いんだけど!」
「暗いな〜、もっと笑ってみ?」
頬を容赦なくつままれて上に引き上げられる。
力加減が下手くそだからいつも痛くて、きっと叩かれた背中もほっぺたも赤くなってるんだろう。
私と同じ病人なんて嘘みたいに明るくて、台風みたいな彼女。
なんで彼女がここにいるのか、時々分からなくなる。
証明してくれるのは、手首に巻かれた番号とアルコールの香りだ。
「やめてよ!もう!」
ようやく手を振り払う。
彼女はなんでか楽しそうに笑ってる。
「病院ではお静かに」
看護師さんのお叱りに不満だった私は目を逸らした。
彼女は悪びれもなく手を振った。
看護師さんが病室から出て、お互いのベッドに戻る。
彼女は雑誌と筆記用具を取り出してベッドの上に広げる。
「この新しいカフェに行きたいんだけど」
「いつ行けるかなんて分かんないじゃん」
スイーツ特集が組まれた雑誌のページを向けられるのでそちらを見る。
オシャレな内装と、綺麗に飾られたフルーツやケーキに興味がないわけじゃない。
でも彼女にまんまと乗せられるみたいで素直に行きたいとは言えなかった。
「いつか行くんだから、ちゃーんと計画立てなきゃ」
音のズレた鼻歌は、分かりづらいけどたぶん少し前に流行ったK-POP。
雑誌にはいくつか付箋が貼られて、マーカーが引かれている。
また一つ、彼女は笑顔で付箋を貼り付ける。
「なんでそんなに笑ってるの」
「え?だって楽しみじゃん」
楽しみなんてどうして言えるんだろう。
辛い検査も薬もいつ終わるかなんて分からないのに。
やっと退院しても、またここへ戻ってくる絶望を彼女も知ってるはずなのに。
そんな私の思いを見透かしたように、彼女は私のベッドにやってきて手を握る。
「行くよ、二人で絶対に」
下手くそな力加減のせいで少し痛む手。
けれど前より少しだけ、握る力が弱かった。
指先も冷たい。
「私達には明日しかないんだから」
昨日にずっと囚われてる私を引きずり出すみたいだ。
真夜中に、シーツに隠れて枕に顔を埋める彼女を知っている。
小さな涙声でこわい、と泣いていた彼女の声が忘れられない。
それでも彼女の瞳はどこまでも明日を信じてる。
こっちの都合なんてお構いなしで、知るもんかと笑って手を引く。
彼女こそが、私を明日へ繋いでくれる人。
「痛いんだけど」
そう言いながら、私の温もりが少しだけ彼女に移ればいいと手を離さないでいた。
透明な水
あの子は透明な水のよう。
綺麗で、誠実。
困っている人がいたら助けに走る。
誰にでも好かれる、そんな人。
みんな、そんな彼女のところへ集まるの。
まるで綺麗な水を求める魚みたい。
ゆらゆら、ふわふわ。
みんな、あの子の隣で優雅に泳いでる。
私は息ができない。
あの子の隣では、自分が惨めで苦しくてたまらない。
あの子ばっかり。
あの子なんて。
そう思う私は、きっと透明な水では生きられない魚だった。
理想のあなた
晴れた日曜日の昼頃。
片田舎にあるこじんまりとした小さな美術館を訪れた。
観光地にもならないから中にいるのは暇潰しに来た地元の人間か観光者くらいだ。
見飽きた展示品が並ぶブースを通り過ぎる。
行き着いた特別展示室と書かれたそこに、彼女は今日もいた。
特別というわりに変わり映えのしない展示品にはもう地元の人間は飽きている。
別館になるここへ来るための廊下は分かりづらいから、観光者もあまり来ない。
まるで僕と彼女が出会うためのようだった。
けれど声をかける勇気はなく、今日も遠くから彼女を見つめる。
金色の髪が柔らかく波打ち、空色の瞳は慈愛を込めて細められる。
温かそうな日差しを浴びて微笑む姿。
名前も知らない彼女はどんな国で生まれて、どんな風に生きてここにいるのだろう。
今日も君は美しい。
今日の天気はあまり機嫌が良くない。
美術館に来る人間もいつもより少ない。
けれど、きっと彼女はいる。
足は迷いなく進み、案内順なんて無視して最短ルートで彼女の元へ向かう。
特別展示室のプレートが貼られた部屋に入ると、珍しく二人の男女が立っていた。
「ねぇ、この絵ってなんかすごいの?」
「さあ?飾られてるから一応有名なんじゃね」
マナーも何もない二人の声は静かな空間を不躾に震わせる。
ムッとしてしまう僕に比べて、彼女は変わらず美しく微笑みながら二人を見つめている。
「とくに有名じゃないならもうよくない?」
「じゃあ行くか」
あっさりと二人は出て行く。
ようやく静かになった空間に肩の力を抜く。
静かになると雨音に気付いた。
外は雨が降っていたようだ。
彼女の元へ行き、正面のソファに腰を下ろす。
額縁の向こうで、今日も彼女は日差しを浴びて微笑んでいる。
作者不明のため描かれた女性の情報を示すものはない。
それでも良い。
ただ分かるのは彼女は今日も明日も、そして僕が死んだあとも美しいということだけだ。
突然の別れ
どうして。
どうして。
どうして。
何度も問いかける。
何度も神様に祈る。
けれど、現実は変わらない。
重く冷たい霊安室で、真っ白なシーツに包まれた君に縋り付く。
もう、どうしたの。
記憶の中の君が淡く笑う。
覚えていたはずの君の温もりが凍えていく。
くだらない喧嘩をした。
始まりなんて思い出せないくらい、くだらないものだった。
言葉にならない後悔と悲しみが、涙と嗚咽になって君に降り注ぐ。
本当なら君の好きなケーキを買って、謝っているはずだった。
謝る俺を、許さないからなんて君は怒ったフリをするけれど。
なんだかんだでいつも許してくれるから。
そんな君に甘えていた自分を許せない。
君が許してれなきゃ俺は、ずっと俺を許せないよ。