みんなは、誰と手を繋ぐ?
家族?友人?はたまた、恋人?
あぁ、あぁ、幸せなもんだ。え?普通だって?いやいや、普通なわけあるか。
確かに、僕たち日本人は、日本が平和な国だから「普通だ」なんて言えてんだ。今のウクライナとかは、「銃の持ち手」と手繋いでんだよ。もしかしたら、家族も、友達も、恋人も、全員いなくて。安全に繋げる、誰かの手を探してるかもしれないんだよ。
な?俺たちは幸せなんだよ。そこんところ、自覚をしないと。世界平和?多文化共生?そんなん叶うはずがないんだ。
いま、当たり前にできてることは、人のぬくもりに、当たり前に触れられることは、幸せな証だと。早く気付いてくれ。そして、もし、そんな人々が周りにいるのなら、手を差し伸べて欲しい。
これを読んでくださっている方々にも、理解して欲しい。あなたが今、安全に、親や恋人の存在に会えているのなら、それは幸せなことだと、特別なことだと。
最近、人は言葉の重さを理解していない。それをすごく感じる。
簡単に「死ぬ」だとか、「ばか」だとか。本当の意味は、どれだけ恐ろしいものか。最悪、人を殺す凶器になってしまう。
これは、ありがとうや、ごめんねという言葉にも言える。
今、誰かに感謝をしたね?それは、心のこもった、「ありがとう」なのかな。
今、誰かに謝ったね?それは、心からの「ごめんね」なの?
言葉には、すごい力がこもっている。だからこそ、取り扱いに気をつけなければいけない。
もっと言えば、そのすごい力を、上手に使えるのなら、力で決める戦いなんて、なくなってしまうだろう。
今、人が進歩させるべきなのは、他の人を傷つける兵器ではなくて、今の人々の、言葉の取り扱いなのかもしれない。
「部屋の片隅でうずくまっている人がいる。」
なんていう描写がある。上のような文を読んで、みんなは多分こう思う。
「あぁ、学校でいじめられたのかな。」
「悲しいことがあったのだろう。かわいそう」
じゃあ、それが動物なら?(例えば猫)
「警戒してるのかな」
「怖がってるね」
じゃあ、それが、『ほこり』だったら…?
「汚い」
「埃っぽい。掃除しろよ」
人は、部屋の隅にあるものが何かによって、連想する考えが異なる。生き物には、心配をかけて、寄り添おうとするのに。生き物じゃないとなったら、違うのですか?
これは、人の心の中に、差別の心があることを表しているのではないのだろうか。
なんで、人って逆さまなんだろう。
人は辛い時、周りのみんなに「大丈夫」っていう。
人は苦しい時、周りのみんなに明るく振る舞う。
人は泣きたい時、何事もないような態度をとる。
ほら、全部逆さま。なんで、逆さまにするんだろう。
ーーーそれはね、弱みを見せたくないからなんだ。人は、弱みを見せることを、恥ずかしいと思っちゃう。そんな事、あるわけないのに。
人に弱みを見せても、大丈夫だと、みんながわかることができたのなら、この世界の人々は、助け合うことができて、平和になれるのかな。
人は、眠れないほど、「なにか」を考える。
その「なにか」は、人それぞれ。
だけど、眠れないときに「なにか」を考えることは、好きな人を考えることと同じだと思う。
好きな人を考える時は、いつ?それは、大切な時間も、休憩中も、すべての時間に考えてる。四六時中。そうでもないと、好きな人とは呼べないから。
眠れない時に、「なにか」を考えるってことは、大切な寝る時間が減ってくけど、「なにか」を考えてるってこと。それは、同じことなんじゃないかと思う。
だからなんなのって感じだけど、僕はこれが、人を好きになるとき、考え事をする時に、すごく大切に思えて仕方がない。
冬華(トウカ) 2