朝。
鳥のさえずりが聴こえる。
起きてすぐに考えることは、おはようと言う相手がいなくて寂しいこと。
鳥にでもおはようと言おうと窓を開けたが、鳴く声が聞こえるだけで姿形は見えない。
……ちょっとくらいその姿を見せてくれたっていいのに、と冷たい風を浴びながら思う。
わざわざ冷たい風を浴びるだなんてと思われるかもしれないけれど、私はこれを浴びるのが何よりも楽しいのだ。
決して寒くない訳ではなく、全然鼻水は出るし少し足が冷えてきたりもする。だけれど、私はこれを楽しんでいる。
辛いものが得意ではないが好きではあるので食べるのと同じように。
怖いものが得意ではないが好きではあるので見るのと同じように。
まるで寒いという言葉がマイナスのように扱われていることに私は憤りを感じている。
寒いとはすなわちもこもこの暖かい上着がより暖かく感じて幸せになれるし、
おでんがより味わい深くなるし、
こたつでアイスを食べるという矛盾行為を楽しむことだってできる。
……憤りを感じてるにしてはなんだか理由が軽い感じがするし、こういう軽いことで憤りを感じているからこの世界の平和が脅かされるのかもしれない。
────話は変わって。
私は自分のことを愛している。
1人で悠々自適に暮らして、傍から見たら素晴らしいことである(朝食をしっかり食べることが)コーヒーとパンと目玉焼き、そしてベーコンにクラムチャウダーを朝食としてテーブルに並べている。
洗濯だってしっかり回して(たまに終わったのにそのままにしてしわくちゃのままにして最悪の洗濯物をうむ時だってあるが)自分のことなんだからどうだっていい、そういう所でさえ愛らしいと思う。
周りに愛されているかは別として。
こんなにも自己肯定感が高いのに、周りから愛されているかの自信はないなんて自己矛盾の塊に等しいであろう。
時に、自分からの愛は大いに気づけるが、人からの愛は果たして本当なのかと思うことがある。
私は比較的何人かは友達が居るし、たまに遊ぶし、たまに通話しながらゲームをする相手だっている。
けど確固たる愛されている、好かれている自信があんまりないのだ。
結局は皆私以外の人が1番仲良かったりするし、私のことが凄く好きだと言っておきながら誰かのことを最優先するところを見たことがある。
まぁ、人の思うことなんて瞬時に変わるものなのだからそれに囚われている私がおかしいのかもしれないけれど。
というか、私はただ愛されたいというより1番に愛されたいという傲慢な考えを持っているのだ。
だって皆私を優先しないから。
学生の頃、移動教室の帰りなどでいつもの友達がいる時は私を見向きもしないくせして、いつもの友達がいない時は私を誘う子をよく見た気がした。
わたしはあなたの良いように使えるものではないのだけれど…………
かと言って、私はその誘いに大いに喜んでいるのでつくづく面倒臭くて哀れな人だと自分で思う。
こういうことを誰かに相談できたら良かったけれど、私は普段能天気で悩みが無さそうなマイペースな子としてレッテルを貼られている(というか自分で貼っている)から
私がこういう相談をすると「え?」みたいな反応されそうで怖くなる。
こういう相談ができるほどの仲のいい友達がいないのもある。そこまで多くないのに浅いのはどういうことなのか。浅く狭くって1番悲しいことなのではないのか。
……何だか愛の方が憎悪に塗れたことになってしまったし、鳥のさえずりの時とはまるで別人が語っているような文章になってしまった。
私は平和より愛の方が気にしているのだろうか。
テーマ 「愛と平和」