愛されなかった訳じゃない。
貧しかった訳じゃない。
むしろ数え切れないほど愛情を注がれて、いろんなものを買ってもらった、習い事だって好きなことをやらせてもらえた。
それじゃあなたはさぞや幸せ者なのだろうと問われれば、私は素直に頷くだろう。実際、私は恵まれているから。
食うものに困らず、住む場所に困らず、お金に困らず。たったそれだけのことが、“それだけ”だと思っていたことがどれほど幸福なことか。それを理解するのに、私は周囲の子たちよりほんの少し時間が掛かった。
“それだけ”のことをある程度理解してから、私は二つ下の幼馴染に両親の話をしなくなった。
幼馴染には母親がいない。離婚したそうだ。いつだったのかは聞いていないが、初めて会った時にはもういなかった。
そのことを初めて両親に話した時、母は言った。
「その子の前でおかあさんの話をするのはやめなさい」
なんて可哀想なのかしらと、箸を持っていない左の手で頰に触れながら眉を下げる。
私は、母のこの仕草に弱かった。だから素直に言うことを聞く──あの子に両親の、とくに母の話をしない──ことにした。
それても不意に“母”という言葉が口を突いて出ることがあったが、私はあまり気に留めない振りをして、早々に話の趣旨をずらすようにした。きっとあの子にはバレていたけど。
何故って、だってあの子はとても賢いもの。
私よりもっとずっと利口で、周りに気遣いができて、考え方も大人びていた。だけど動きは年相応で、楽しそうに遊ぶあの子を見る度、心のまんなかを擽られるような心地になって……。
そう、妙に大人びた二つ下の幼馴染は、あの子を可哀想だと言った母を連想させるような仕草をしない子だった。私はあの子のそういうところが堪らなく好きだったのだ。
私は両親のことが嫌いな訳じゃない。
両親も私のことが嫌いな訳じゃない。
だって彼らは私にたくさんの愛を注ぎ、私が欲したものを与え、たくさんの知識を授けてくれた。
母は優しく話を聞いてくれるし、父はいざという時は二人できちんと叱ってくれる。悪い人たちではないのだ。決して悪い大人ではない。
ただ、それらが時にこどもの自由や自我の発育を留めてしまうことを知らなかった。そうなる可能性を考えられなかっただけ。
そこに目を瞑ればいいだけであることは理解している。
だけど私にはできなかった。
私には、二人の深すぎる愛情が窮屈で堪らなかった。
今日は委員会で門限に十五分間に合わなかった。
両親はきっと気が気でなかったのだろう、私が帰宅の挨拶をするより早く肩を掴み「なぜ」と唾を飛ばした。
事前の連絡も寄越さずこんな時間までどこにいたのかと問われたので事情を説明すると、今にも殴りかからん勢いで強く私を抱きしめる父。平皿に乗った箸が落ちてカララと音を立てた。
その日の晩、SNSで「毒親」という言葉を見かけた。
毒親。よくは知らないが、たまにクラスメイトたちが話していたような気がする。
なんだか嫌な感じがしたのでミュートワードに設定してこれ以上見えないようにした。私には関係ないのだから。
▶︎心だけ、逃避行 #7
思いも、願いも、何もかも、
わたしには届かない。届けさせやしない。
わたしは独りで生きて、死んでいくの。
他でもない貴方のせいで。
▶︎届いて… #6
「その願い聞き届けた」と舞う女 白い羽衣を首に巻いて
▶︎願い事 #5
さらさらり
山端の際をゆく水がいずれの日の君へ届いたら
▶︎さらさら #4
『名を明かすことは重罪』
国教の法典にそう記されることは、国民の皆の周知するところである。
何故このような記述があるのかは誰も知らない。──否、私の知る者のなかにはこれを説明できるほど頭脳明晰で弁の立つ者がいなかった。法を専攻する者であればなにか知っているかもしれない。
ただ、風の噂で、名とはそのものを顕すものだと耳にしたことがある。
真偽は定かではないが、当時の治世や国政によってはあり得なくもないのではないかと思う。例えば、そう。
この国に、**が─……
──ガチャンッ!
大きな音にハッと頭を振る。いけない、また余計なことばかり。思考を切り替えねば……。
手にしていた雑巾をバケツに放り込んで廊下へ駆け出、音のした方へ行く。駆けていくことを許されないこの場所ではほんの少し速く歩くのにも一苦労である。
そこは奥から二番目──奥様の部屋だった。うっすら開いた扉に耳をそば立てると、荒い息と啜り泣く少女の声が鼓膜を震わせた。
その細い隙間に指を掻き入れて開け放してしまいたいのを必死に抑えて、深呼吸の後ノックを三回。数瞬待つが返事がない。一言声を掛けてすぐさま扉を開いた。
「失礼いたします。うちの者がなにか粗相を御座いましたか、奥様」
部屋のなかは清潔であった。ベッドは美しく整えられ、花瓶の花は窓際で生き生きと日の光を浴び、高価な調度品から足元の部屋の隅まで埃一つ見当たらない。どうや、清掃の不備ではなさそうだ。
重ねて言うが、部屋のなかは大層清潔で、程良く生活の色が窺える、普段の貴族の女性然とした部屋である。
ただ一点、美しい赤褐色のドレスを見に纏った女性が肩を上げる正面に、ひとりの侍女が踞っていることを除けば。
「ッひ、ぅ……」
──嗚呼、またいつものか。
奥様は時たまこうして癇癪を起こす。その矛先が向かうのは大抵近くにいる侍女であり、その侍女というのが、奥様専属──私の妹である。
「ああ、誰かと思えば。お前、この女にいったいどんな教育をしているんだ!」
妹の頬は赤く染まっていた。つい数日前もぶたれたばかりで、折角赤みが引いてきていたところだったのに。
「申し訳ありません。私の方からもきつく言い付けておきますので、此度は何卒ご容赦いただけませんか」
□□□
これまで使徒が訪れたことも、その知恵の一端を授かることすら無かったのに存在を信じて止まない、愚かでふざけた善性。そんなもの本当にあるのかとひとつ疑いを呟けば徹底的に叩かれ折られ排除される可笑しな国。
在れども無れどもなにも変わりやしないのに、それにすら気付かず祈りを捧げ、時間を捧げ、名すら捧げ続けている。こんな国に知者など居やしない。
この国に、この世に神など居ない。
あってはならないのだ、そんなもの。
▶︎君の名前を呼んだ日 #3