『名を明かすことは重罪』
国教の法典にそう記されることは、国民の皆の周知するところである。
何故このような記述があるのかは誰も知らない。──否、私の知る者のなかにはこれを説明できるほど頭脳明晰で弁の立つ者がいなかった。法を専攻する者であればなにか知っているかもしれない。
ただ、風の噂で、名とはそのものを顕すものだと耳にしたことがある。
真偽は定かではないが、当時の治世や国政によってはあり得なくもないのではないかと思う。例えば、そう。
この国に、**が─……
──ガチャンッ!
大きな音にハッと頭を振る。いけない、また余計なことばかり。思考を切り替えねば……。
手にしていた雑巾をバケツに放り込んで廊下へ駆け出、音のした方へ行く。駆けていくことを許されないこの場所ではほんの少し速く歩くのにも一苦労である。
そこは奥から二番目──奥様の部屋だった。うっすら開いた扉に耳をそば立てると、荒い息と啜り泣く少女の声が鼓膜を震わせた。
その細い隙間に指を掻き入れて開け放してしまいたいのを必死に抑えて、深呼吸の後ノックを三回。数瞬待つが返事がない。一言声を掛けてすぐさま扉を開いた。
「失礼いたします。うちの者がなにか粗相を御座いましたか、奥様」
部屋のなかは清潔であった。ベッドは美しく整えられ、花瓶の花は窓際で生き生きと日の光を浴び、高価な調度品から足元の部屋の隅まで埃一つ見当たらない。どうや、清掃の不備ではなさそうだ。
重ねて言うが、部屋のなかは大層清潔で、程良く生活の色が窺える、普段の貴族の女性然とした部屋である。
ただ一点、美しい赤褐色のドレスを見に纏った女性が肩を上げる正面に、ひとりの侍女が踞っていることを除けば。
「ッひ、ぅ……」
──嗚呼、またいつものか。
奥様は時たまこうして癇癪を起こす。その矛先が向かうのは大抵近くにいる侍女であり、その侍女というのが、奥様専属──私の妹である。
「ああ、誰かと思えば。お前、この女にいったいどんな教育をしているんだ!」
妹の頬は赤く染まっていた。つい数日前もぶたれたばかりで、折角赤みが引いてきていたところだったのに。
「申し訳ありません。私の方からもきつく言い付けておきますので、此度は何卒ご容赦いただけませんか」
□□□
これまで使徒が訪れたことも、その知恵の一端を授かることすら無かったのに存在を信じて止まない、愚かでふざけた善性。そんなもの本当にあるのかとひとつ疑いを呟けば徹底的に叩かれ折られ排除される可笑しな国。
在れども無れどもなにも変わりやしないのに、それにすら気付かず祈りを捧げ、時間を捧げ、名すら捧げ続けている。こんな国に知者など居やしない。
この国に、この世に神など居ない。
あってはならないのだ、そんなもの。
▶︎君の名前を呼んだ日 #3
歌はいい。
うまく伝えられない感情を形にしてくれる。
歌はいい。
ささくれだったこころにあめを与えてくれる。
歌はいい。
そうして、だれかを救うチャンスをくれる。
あの時わたしがしてもらったみたいに、顔も名前も知らないだれかを掬い上げたがるお人好しにはぴったりだ。
だからわたしは、歌を選ぶ。
▶︎歌 #2
とっておきだと話してくれた純白のワンピースが、風に揺られてさらりと音を立てた。
まっさらなカーテンに包まれてはにかむ姿を見ていると、まるで結婚式場にでもいるような心地になって、それと同時に、きみが不意にどこかへ攫われてしまいそうな気がして怖くなる。そんなにか弱いひとではないと分かっているのに。
ねえ、きっと幸せにしてみせるから、僕と……
▶︎そっと包み込んで #1
機種変更以前のデータを繋ごうとしたらパスワードをメモし損ねており唖然とする。はじめからやり直し。