光の回廊
私たち幽霊の間で囁かれている噂があります。光の回廊を抜けた先に、本当に求めている場所、魂の安寧が約束される場所がある、というものです。今のこの時期、街のあちこちで光の回廊とも言うべき美しい光景に出くわします。ただの電飾と分かっていても、あの光に吸い寄せられてしまうのは、今度こそはという淡い期待があるからなのでしょう。電飾の中に何か影が横切ったとしても、どうか怖がらないで欲しいのです。それは私達が何処にもたどり着けずに漂っているだけなのです。
降り積もる想い
思い描いてみてください──触れたとたん消えてしまいそうな雪の結晶。ひとつひとつは儚くても、いつの間にか辺りを白く覆っている──そんな風に静かに深く、誰かを大切に想ったことが、あなたにあったでしょうか。あるいは悲しみ。胸の内に悲しみをきちんと留めたことがあったでしょうか。あなたはいつも自分の想いさえ曖昧に希薄にしてきました。誰かが離れていくことに、痛みより安堵を感じてしまうあなたなら、仕方のないことだったのかもしれません。そうしてずっと何も降り積もらせることのなかったあなたの心は、空虚なものになってしまいました。あなたのその心を、私は抱きしめたいんです。
時を結ぶリボン
あなたは昔から不器用でした。リボンだってうまく結べませんでしたね、いつも歪な形になってしまいました。あの子が結んだ綺麗なリボンとは大違い。結び直そうとほどいてみても、かえって不恰好な固い結び目がいくつも出来るばかり。その度にあなたはため息をつき、目に涙を滲ませました。いっそのことリボンなんて切ってしまえばいいのに、あなたを見て私はそう思ったものです。けれどもあなたはそうしなかった。しわくちゃになったリボンをほどくこともできず、今でもぎゅっときつく握りしめたままなのですね。
手のひらの贈り物
部屋に入ってみると、あなたはうずくまっていました。私が天使だったら、その寄る辺ない背中にそっと手のひらを添えたことでしょう。打ちのめされて顔を上げることも出来ないあなたに、ささやかな贈り物をすることができたかもしれません──わずかであっても温もりを。ですが私は寂しさに誘われて来た幽霊です。温もりどころか質量さえ失ってしまった存在ですから、あなたに触れることすらできません。ただ、あなたが誰にも打ち明けられない寂しさを抱えていることが、ひどく心地良いのです。
心の片隅で
靄がかかってしまって、心の片隅にさえアクセスできなくなった。
何かをしまっておいたはずなのに。
何をしまったんだっけ?
大事なものだった気がする。
壊れてしまいそうなものだった。
今もどこかで、震えているんだろうか。
雪の静寂
……子供たちも夫もすっかり寝入ってしまった雪の降る静かな夜。私は一人、眠りにつけずにいた。こんな時に思い出してしまうのは故郷のこと。私の故郷は雪深いところだ。目を閉じて一面雪に覆われた景色を思い浮かべた。あの全てが凍てつく美しさときたら。
私は本当の静けさを知っている。どこまでも続く白い沈黙の世界。眠れない今夜、何故か故郷の静けさが恋しかった。子供の頃、ふざけて雪の中に寝転んだ。身体を全て雪の中に沈めると、とてつもなく安心したものだった。どうしようもなく今、あの冷たい静けさが恋しい。
子供たちも夫も静かに寝入っているというのに、ここは小さな音に満ちている。ささやかな寝息、衣擦れの音。
同じ布団で眠る夫と子供たち。その温もりに私はいつも少し戸惑う。ちゃんと血液が流れている心地よいあたたかさ。私の冷たい皮膚とは違う。
私は、隣で眠る夫の胸にそっと耳を当てた。ゆっくりと落ち着いて刻む心臓の音。夫の中から聞こえてくる。
今、私が恋しいのは、故郷のあの静けさ。誰にも壊せない雪景色、全ての音を消し去った白だけの世界。あの静寂がひどく懐かしい。雪の中で私は自由だった。
だけどもし、あの静かな場所に戻ったら?
ぬくもりを知った今、私は雪へと帰ることが出来るだろうか……いや、きっと私はひどく恋焦がれるに違いない。夫の心臓の音、子供たちの吐息、全てのぬくもりを思って胸をかきむしるだろう。
「眠れないのか」
夫の乾いた声に私は、大丈夫、と答えた。
こんな夜には、夫の心臓の優しい音が私を眠らせてくれる。(ある雪女の独白)
君が見た夢
「例え夢であっても人が死ぬなんて嫌だ。そんな悲しい夢、絶対に見たくない」
そんな事を言っていた僕の妻。
彼女が先日の夜、ようやく眠りにつこうとした僕の横でつぶやいた寝言がこれです。
「……はい、そうです。私がやりました。私が夫を殺したんです」
翌朝、殺害に至る動機と殺害方法をあれこれ考えて寝不足だった僕とは反対に、すっきりと晴れやかな表情の妻。おはよう、と上機嫌な笑顔を僕に向けてくれたのでした。
明日への光
その光はきっと、僅かであってもまばゆい光なのでしょうね。
明日を生きることを選択した者にとっては。
今のこの世で、幽霊となった私。
実体を伴って生きていた頃、いつも明日が来ることが怖くてたまりませんでした。どうかこのまま夜が明けないでと何度願ったことでしょうか。
あの頃の私は既に半分死んでいたようなものです。世界というのは怯えて立ち尽くすには十分でした。
そして今、私は幽霊となっても、あの頃と大して変わらずにいます。抱えていた苦しみを手放しもせず立ち尽くしたままです。
ここでひとつお話しておきたいのは、明日を選ばないことは、その光を否定することではない、ということです。どんなに弱く頼りないものであっても、明日への光が完全に消え去るものではないことは私にも分かります。ただ私はもう幽霊となりましたから、その光に手を伸ばすことはないでしょう。暗がりからじっと、その光を見つめているだけなのです。