現実逃避
季節の節目。
大抵の桜が散って、遅咲きの桜が美しい頃。
なんとなく花の香りがしているような気がする。
俺は決して、窓を見ないように俯いて机を見ていた。
見なければ無かったことになってくれるはずだ。そんな馬鹿な事を考えながら、ひたすら机の木目を見つめる。
(これは妄想なんだ…きっと、妄想だ)
きっとこれは、俺の願望が生み出した妄想に違いないのだから、わざわざ窓へ……正確には、窓側へ、顔を向けて確認する必要はない。確認したくない。
「あの、聞こえてますか?」
「…いや?」
「聞こえてますよね?」
妄想が話しかけてきた。俺はそれに返事をした。
つまり俺は妄想と会話をした。
駄目だこれは、いよいよ末期だ。病院へ行こう。
内心で病院へ行く計画を立てながらひたすら机を見つめる。そろそろ飽きてきたが絶対に隣を見てはいけないので見つめ続ける。
周りがまた、ざわざわとしだしたところで、隣からズズ、ズズ、と妄想のくせにやけにリアルな物音がした。
ふわりと、柔軟剤かシャンプーか、俺には分からないが兎に角、いい香りが鼻腔を擽る。
妄想は俺のシャツをくいっと、控えめに引っ張った。
「……ねえ、本当に大丈夫ですか?席替えでそんな顔する人、貴方だけですよ」
小さな鈴のような、せせらぐ水のような、澄み切った、少し低いが、丁度いい落ち着きのある中性的な声。
教室の喧騒で、俺たちの話し声で、いつも簡単に掻き消されてしまうあの声。
それが、今、真隣から。
「あの、どうしたんですか? 具合わるい?」
袖を掴んでいた指が離され、代わりに俺の額へひんやりとした手のひらが当てられる。
妄想ではなかった。
いつも一人静かに教室の隅で本のページを捲っていたあの人が、すぐ、傍にいる。
妄想じゃなかった。妄想じゃなかった!
つまりこの醜態を隣でバッチリ見られている。
「………大丈夫」
なんとか絞り出した声さえ裏返った情けない俺を、隣からくすりと笑う声がした。
嗚呼、やっぱり花の香りがする。