NO.2
机に押し当てたこめかみがじんわりと痛くなってきた。
五時間目が始まるこの時間は特に頭が重い。机に立てた教科書の後ろに顔を埋める私は、窓の方に向きなおった。
蝉の声がいっそう大きい、うっとうしいほどに暑い八月の最後。受験生とはいえ、永遠に続くようにも思えてくる夏期講習は憂鬱で仕方がない。特にこの、丸眼鏡の奥に一本線を描いたような目の橋本先生の授業は眠すぎる。板書もほとんどないなんて、寝ろと言われているようなものだ。
早く家に帰って冷たいアイスが食べたいなあ、確か雪見だいふくがあったなあと、目をつむるとさっきまでうるさかった蝉の声が一瞬で消えた。
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私の意識は、うだるような暑さとは無縁の冷たい銀世界に飛んでいた。
私は目の前に延々と続く雪原をものすごい勢いで走っていた。
早鐘の様に打つ自分の鼓動と、背後の巨大な足音が耳に迫ってきた。運動音痴のはずの私は軽々と雪原を飛び跳ね、ぐんぐんと前へ進んでいく。
ほとんど飛んでいるように軽い自分の体に感動したが、状況は最悪だった。追いかけてくるものが一体何なのか気になるが、絶対に振り向いてはいけない気がした。
しかし、恐怖におののく意識下の私をよそに、全力疾走している方の私はくっと口角を上げ、思いきり後ろを振り返った。
ぎゅっと目をつむったが、抵抗むなしく外の景色が瞼の裏に流れ込んできた。否が応にも私の目が捉えたのは、あまりに恐ろしい形相の巨大な「真っピンクなフォーク」だった。
ぎゃああああああああと叫んだが、この世界の勇者である私は、怖がる私を他所に得意げにへへっと笑った。グッと膝辺りに力が入るのを感じて、「真っピンクなフォーク」との距離がどんどん開いた。
___と、急に景色が反転した。背後に気をとられている間に、何かにつまづいて転んだらしい。しかし、この世界では優れた体幹の持ち主の私であるは無様に転がることはせず、もんどりうって華麗に着地した。
今が好機だと言わんばかりに、「真っピンクなフォーク」がとびかかってきた。「真っピンクなフォーク」の身のこなしも相当なものだ。意識下の私は死を覚悟した。
しかし、この世界の私は一味違う。右手の拳を突き出し、「真っピンクなフォーク」の右の耳の下に一発お見舞する。鈍い音がして「真っピンクなフォーク」の顔が歪んだ。
相手の体勢が揺らいだその一瞬の隙を突き、私は大きく飛び退った。
動揺する「真っピンクなフォーク」を背に、再度走り出そうと一歩を踏み出したとき、勢いよくドンと何かにぶち当たった。驚いて振り返ると、目の前に私が立っていた。___否、自分とまったく同じ姿形をした誰かが立っていた。彼女も誰かに追いかけられていたのだろうか。額にうっすら汗が浮かんでいる。私を見て、少しほっとしたような表情を見せた。
「お姉ちゃん!」
彼女が私に向かって発した言葉から察するに、彼女と私はどうやら姉妹らしかった。頼りがいがあるこちらの世界の私は彼女の腕をつかんだ。ここは任せろ、おまえは私が守る。などと最強の戦士である私が言っている。
前を向き直ると、一発殴られて怒り心頭の「真っピンクなフォーク」が目の前に迫ってきていた。怒りの所為か、体のピンク色が更に鮮やかになっている。
妹を背中に庇いながらの応戦はかなり難しい。必死の抵抗むなしく、じりじりと間合いを詰められる。歯を食いしばり、拳を握りしめたところで、背後から叫び声が聞こえた。
「真っピンクなフォーク」の攻撃を受け止めながら必死に振り返ると、妹の目の前に別の「真っピンクなフォーク」が迫っていた。
戦うということを知らないであろう妹は、目をつむりうずくまっているだけだった。
目の前の「真っピンクなフォーク」の攻撃を無理やり跳ね除け、身をよじる。手を伸ばして、妹の身に迫る攻撃を受け止めたときだった。肩あたりに鋭利なものがつき刺さった。それでも私はぐっとこらえて、渾身の力で妹の目の前の「真っピンクなフォーク」を跳ね飛ばした。
かなり深くまで刺さったらしい。体がほとんど動かなかった。妹が雪の上に倒れ伏した勇者——私の名を必死に呼んでいる。しかし、どうしてか名字で呼ぶのだ。私が田中なら、おまえも田中だろうに。複雑な家庭環境なのか…。
私は遠のいてゆく意識の中で、確かな痛みを感じていた。
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「_____おい!田中!起きろ」
ハッとして頭を上げると、橋本先生が鬼の形相で目の前に立っていた。さっきの痛みは、先生が手にもっている教科書の角が肩にめり込んだものらしかった。
さっきまでの威勢はどこへやら、私は小さく「すみません。」とつぶやいてうなだれた。
周辺からは失笑が漏れ聞こえてくる。さっきまでの私なら、えへへなんて笑って、また先生に叱られただろう。こっちの世界ではただの小心者だ。先生はしばらく、私に受験生の心得とは何ぞやを語ると教壇に戻っていった。ようやく周囲のざわめきも消え、私はふぅーと長く息を吐いた。妹に今日の話をしたらなんというだろうか。いつものように、面白い物語だね、とニコニコ笑ってくれるだろうか。
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午後一時の窓際は、現実世界と空想世界のバランスが崩れやすい。
頭が重くのろくなり、空想世界の重さに耐えかねた私は夢を見る。
みんなは馬鹿にするけれど___私も時折馬鹿にするけれど。
広く限りないこの世界は私の翼。二本の手と、二本の足の他にもらった天からの贈り物。
#雪
#雪見だいふく勇者
#過去作
NO.1
あれから随分時間が経った。
君との思い出は全部捨てて来たと思っていたけど、引越しの荷造りの時にひらひらと足元に落ちてきた君と一緒に笑う私。
拾い上げると、今より髪が短い私と思いっきり笑った時にだけ見える片えくぼの君がいた。
当時のことをふと思い出していると、隣の部屋から私を呼ぶ声がして、少しだけ後ろめたく思う。
部屋の隅のゴミ箱にねじ込んで立ち上がったところで、ちょうどドアが開いた。
「何隠してるの?そろそろ行くよ」
八重歯の覗くたずらっ子な笑顔に、私も釣られて笑顔になる。
「内緒」
ちょっと悪い顔をしてそう返すと、彼は大袈裟に目を見開いてえーっと言いつつ、楽しそうな顔を私に向ける。
あの日、最後の日。君と一緒に願ったそれぞれの幸せの、片方は叶ったよ。
どうか私の願いも叶えられていますように。
#君と一緒に