「ねえ、このまま逃げちゃわない?」
骸とかしたかつて自分の親だったものに一瞥もくれず、貴女は私にそう微笑みかける。さっきまで、命だったもの。確かにお母さんが亡くなってからは、酒に浸りがちになり、私たち二人に暴力を振るうようになっていたが、それでも、お母さんが生きていた頃、まだ家族が健全なままだった頃の、あのお父さんの微笑みが、その優しい目付きが、光を失った眼孔にちらつく。
「ひかりも分かってたでしょ?こいつがなくなったお母さんの面影を私たちに重ねて、私たちを慰み物にしようとしてたこと。私がたまたま今日、夕飯を作ってたときだったから包丁を持ってたけど、私があの時駆け付けてなかったら、今頃、ひかりはお父さんとシテたってことになるんだよ?」
そういってカヤは、深紅に染まったその手を、鈍く光る包丁ごと、私の手に重ねた。
「わたしは、ひかりのことだいすきだよ。ずーっと、だいすき。さんじゅっぷんはやいけど、わたしがおねえちゃんだし、ずっと、わたしのそばでまもってあげたい」
自分の父親の血の生暖かさに、カヤの、梅雨の空みたいなしっとりとした囁き声が混じり合う。内容が、入ってこない。
「ねえ、その手。血で真っ赤じゃん。もう包丁にも指紋、ついてるだろうし」
包丁が見つかったら私たち、二人とも捕まっちゃうね。肩口で切り揃えられた元気そうな黒髪を軽く揺らして、カヤはそう、事も無げに私に笑いかける。カヤはそのまま、私の長い髪を、真っ赤に染まった血ですっと梳かして
「ねえ、逃げよう?ほら、急がないと誰か来ちゃうよ」
カヤはそういって、髪に伸ばしていた手をさりげなく腰に回して、そっと私を抱き締めてくる、その体温と、声音とは裏腹にバクバクと鳴り響いてる心音が、伝わってくる。二人の心音が、融け合って、同じ音になっていく。私たちは、これでひとつなんだって、本能が主張してくる。孤独が、泣きそうな声で離れたくないと、叫んでくる。腰に回された手を取って、固く結ぶ。