ハルはリビングにぺたりと座り、小さな足を冷たい床に置いていた。クマ耳のパーカーと半ズボンを着ているものの、素足の足先はひんやりと冷たい。
それでもハルは、ぼんやりした顔でぬいぐるみをぎゅっと抱きしめている。いつもと変わらない、感情の薄い顔は、寒さのせいで微かに赤くなっている。
「んぅ……くーしゃ……ぎゅー、する……?」
くーしゃん、とはハルがぬいぐるみに付けた名前だ。たどたどしくその名前を呼び、話しかけている。当然、ぬいぐるみからの返事はないけれど。
最近「する」「した」「してる」の動詞を覚えたらしいハルは、やたらと3つの動詞を使いたがる。大抵、使い方が間違っているが、指摘するひとがいないためにずっとそのままだ。
ハルは小さな手で抱き直し、床にちょこんと置き、また抱き上げる。足先をちょんちょんと動かすことで、無意識のうちに冷たさに気づかないふりをしているようだ。
その様子をハルの同居人で世話係の「せんせい」は、柔らかいソファに座って静かに見下ろしていた。
綺麗な女性だ。20を少し過ぎたくらいの歳だろうか。所作は美しく、上品な雰囲気と冷静な眼差しが目を引いた。
ハルはひとり、ふにゃふにゃと足をバタバタさせながら、抱きしめたぬいぐるみに顔をうずめる。
「ふにゃ……や……はぅ、さむい……してる」
とうとう、無意識に気にしないようにしていた寒さを無視できなくなってきたらしい。自分の名前すら「はる」と満足に言えない舌足らずなまま、ぽやぽやとつぶやいた。
冷たい床の感触に小さな足先は赤くなり、体全体が微かに震えだす。ぬいぐるみを抱えても冷たさは消えず、ハルの表情は少しずつ曇っていく。
「……あぅ……せん、せ……はる、さむ……した……」
こんどは曖昧ながら名前を言えたハルは、ぼんやりした声でせんせいに訴える。
せんせいはゆっくり立ち上がり、ハルの前に歩み寄る。ぽやぽやと見上げる小さな顔に視線を落とした。
ハルの目線に合わせてしゃがみこみ、問いかける。
「あら、どうしたの?」
せんせいの声は優しく、話し方は極めて上品。だがその目には、隠そうともしていない冷たさが滲み出ていた。
「ぅ……はーう、さむ……し、て」
「そう」
「っ……えと、はぅ……」
「寒いから、なに?」
「さむ、から……」
まだ1歳を過ぎて間もないハルは、満足に言葉を紡げない。それでも懸命に小さく柔らかな口をはくはくと開いている。
その様子を見ながら、せんせいは冷たい目をハルに注ぐ。ハルの声に、必要最低限の短い言葉だけを返した。
「なにも話さないのなら、終わりかしら? それじゃあ、私は寝るわね」
「っ、ま、って……」
「なに? 待ってあげてたじゃない」
「ちが、はぅ……はる、さむ、て」
はぁ……と、せんせいのついたため息が、静かな部屋でやけに大きく聞こえた。ハルは反射的に、びくりと肩を揺らす。
寒さに体は震え、唇は震えている。寒くて赤く染まっていた頬は、蒼白に変わっていた。
「ぁ……」
「なにかしら?」
ハルは囁くほどに小さい声を漏らす。なにか言うことを思いついたらしい。
「ぁ、の……はる、だっこ……」
「だっこ?」
せんせいは眉を顰める。
ハルはその反応にまた、びくりと震えながらも、短い腕を必死にせんせいへ伸ばす。
「……だ、こ……はる、せんせ……だっ、こ、する」
「私が? ハルを抱っこしてあげないといけないの?」
「ぅ……う、ん……」
「どうして?」
どうして。
理由を尋ねられても、考えることも言葉にして出すことも、幼いハルには難しい。
ハルはただ、自分の要望を拙く伝えるしかできない、無力な幼子だった。
「せんせ、やー……なの……?」
「そうね。私はあなたが嫌いなの」
「は、ぅ……せんせ、すき……して、る」
普段なら、「嫌い」と言われた時点で、ハルはボロボロと泣いて取り乱す。そうわかって、そうなればいいと思ってせんせいはその拒否の言葉を発していた。
しかし今日のハルは、寒さと疲労で、普段以上になにも考えられていない。おそらくせんせいの言葉も、まともに伝わっていないだろう。
「せん、せ……」
ハルがちいさな声で呼ぶ。それに、可愛いとも可哀想とも、せんせいは思わない。ただ、不愉快なイキモノだった。
せんせいはまた、大きなため息をつく。ハルはただ、表情の薄い目で、せんせいを見つめていた。疲れきって今にも下がっていきそうな腕を必死に、せんせいに向かって伸ばしている。
「……不愉快、気持ち悪い、鬱陶しい」
呪詛のように呟いて、せんせいはハルに手を伸ばす。
ハルの来ているフードを引っぱり自分のほうへ引き寄せ、その首根っこをつかむ。
「っ、ぁえ……?」
ハルの声を無視して、ハルを掴みあげる。いわゆる猫づかみをされ、不安定な状態で、ハルは短い手足を微かにばたつかせた。寒さに悴んだ手足では、その動きにもほとんど力が入っていない。
せんせいは階段を上り、自身の寝室を開ける。ラグが敷かれており、ベッドはひとつだけ。
ベッドに向かう前に、ラグがない床にハルを叩き落とす。
「ふぇ……っ、ぇ……ぁ、い、たい……?」
ハルの素足が床に触れる。寒さと痛みに涙をぼろぼろと零す。そんなハルを見て、優しく声をかけ慰め、抱きしめてくれる人がいるわけがない。
せんせいはハルの存在を無視するように、ベッドへ寝転んだ。
「素足のままで」