奇跡をもう一度
社畜キット 1
無茶振りもいいところなリクエストに、そんなことあるぅ!?と僕は叫んだ。いや、もちろん声を荒げたのは心の中でだ。「リアル僕」は上司の前で澄まし顔をして突っ立っている。
「ずいぶん急な配置転換ですね」
いつもより数段低い声が出た。不機嫌を隠しきれない、やはり僕は未熟者だ。僕の上司こと部署のの室長は流石にそれぐらいでは動じない。ふたりの周囲5メートルから人が失せ、すなわち僕らを取り囲んで様子を伺う様になっても、いつもの柔和な微笑みを浮かべている。だからこそ、僕も混乱を押し殺して室長の前に立てるのだ。
「急を承知でお願いしている。けれどこれは社命なんだ。辞令も用意されている。……来週からお願いできるね」
お願い、じゃねーよ!強制だろそれ。社命て、命令しちゃってるじゃん!!
またしても心の中で叫んだけれど、睨めっこでは絶対に負けたくない僕は表情を無にして頭を下げた。
「承知しました。……来週って週始めからですよね。今日はすでに木曜日なんですけどね」
最小限の嫌味は許してほしい。
そのまま相手の返事を待たずにデスクに戻る無礼も許してほしい。
何しろ3日後には機上の人だ。
今しがた僕は海外転勤(出向)を命じられた。
以前にも似たようなことはあったけれど、若すぎた僕は奇跡的にその難を逃れたのだ。
当時を思い出して重い息を吐く。そりゃああれで運を使い果たしたんだ、奇跡は二度はおこらないだろう。
室長との会話から察した同僚たちの、憐れみの視線が突き刺さる。構わずに僕は今日の業務を片付けるためにキーボードを爆速で打ち始める。ルーチンワークと並行して、御挨拶文なるものを作り、仕事の関係で特に重要な社内外の知り合いにメールを送った。
午後からは日常業務の引き継ぎを後輩にして、デスクも片付けよう。明日は各種手続きだ。大家に連絡して、荷作りして、郷里の両親にも報告して……。
あれ?僕が出向するってことは……
「室長!僕が海外組ってことは、先輩は戻ってくるんですか?」
先程まで我慢できていたのに、僕はその場から叫ぶように室長に尋ねた。
「ああ、彼ね。戻してあげたいけど、出来なかった。彼ね、優秀すぎて現地で昇進しちゃったからー」
で、出世して仕事も増し増しになっちゃったから、君を派遣するの、宜しくね。
にこにこしながら、最重要事項を告げた上司にイライラが募る。一番に言えよソレ。
彼の部下として、サポート役として僕が行くわけか。
そこに至って初めて緊張を覚えた。
「じゃあ、行ってくるから後の企画頼むぞ」
何年か前に、別れの挨拶をしたきりの。
彼の声が耳の底で蘇る。
もう叶わないと思っていた。もう一度一緒に仕事ができるなんて。
これが幸運じゃなくて何が幸運だ。
僕は密かにガッツポーズをつくる。
最低ラインに落ち込んだ気分があっという間に浮上した。
ただの会社命令なんかじゃない…自分の意思で渡航すると思い込め。奇跡をもう一度起こしたのは自分の実力だ。
僕はキーボード上で手を強く握り込み、目を閉じて短く息を吐いた。
僕はできるし、僕はやる。
次に目を開けた視界は、数分前より明るい世界に感じられた。
了