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8/12/2024, 2:30:16 PM

孤高の道を一人行く人よ。

君の歌は郷愁を抱かせるだけでなく
宇宙を抱くかのように荘厳で深遠だ。

濁りのない水晶のような透き通る歌声は
聞く者の心を震わせ、
君の奏でる旋律に共鳴しあう。

君の奏でる音楽は、
音が作り出す宇宙に私を連れて行ってくれる。

何もかもがそこにはあり
各々が持つ宇宙と響き合う。

君の奏でる人間讃歌、自然賛美に
今日も私は、耳をすませ
歌の宇宙を漂う。

上記は1年前に書いた文章だ。

1年経った今も、この思いは変わっていない。

素直な言葉よ、この宇宙に響け
君の音楽に出会えたことの喜びを持って
君という存在の奇跡に感謝を───

8/11/2024, 12:41:47 PM

さて、今朝書いた文章(終点)は、常総線の中での出来事を書いただけで終わってしまった。
その文章も改めてこちらに載せた方が、親切なのだろうか。けれど、あちらも長いからなぁ…。
うーん…。

長くて読み辛いかもしれないけれど、ちょっと一応こちらにも置いておきますね。

その為今回は「終点」と「麦わら帽子」のテーマで、一つの文章となっています。

いつもとは違う作りですが、夏休みの番外編と思ってもらえれば幸いです。

─────────────────────
母親と行く親子二人旅。

車のない我が家は、電車旅が多い。
母親も私も、乗り鉄や撮り鉄ではないが、電車に乗ることは好きな方だ。

人生の中で一度は乗ってみたいと言い続けていたSLに今回とうとう乗ることになった。

SLの発車駅「下館駅」に向かうには、つくばエクスプレスの「守谷駅」から関東鉄道常総線へ乗り換え、「水街道駅」にて再度乗り換えが必要となる。

常総線「守谷駅」のプラットフォームにいると、母親が面白いことに気がついた。
通常、駅のアナウンスは「電車」という言葉を使うが「列車」という言葉を使っているという。
耳をすましアナウンスに注意を向けると、確かに「列車」と言っている。

プラットフォームに入ってきた車体を見て、納得した。
2両編成の車両の上部には、パンタグラフが付いていない。

調べてみると「ディーゼル」を使用した「気動車」と出てきた。

普段乗らない列車に乗るだけで、旅の気分は格段にあがっていく。

「下館」行きと書かれた列車に乗車したのだが、三駅先の「水街道駅」で乗り換えが必要だという。
通常、行き先の電車に乗れば、乗り換えは必要ないはすなのだが。路線ルールなのだろうか。とても不思議な感じがした。

「水街道駅」にて乗り換えをし、今度は一両編成で終点の「下館駅」へと向かう。
田畑が目立つ長閑な景色を列車は行く。
途中途中に止まる小ぢんまりとした駅も、味があって良い。

旅の気分を味わっていると、田園と筑波山の雄大な姿が織りなす、見事な景色が車窓に広がった。

薄黄緑。緑。時折、黄金色。

稲穂が風に吹かれている。

その光景を見て、思わず「あっ」と声を上げた。
一人散歩の時の景色が頭の中に広がっていく。
思い出の中の景色は、目の前の広大な景色よりも小ぢんまりとしたものだったが、記憶の彼方に置き去りにされていた、中学生の時の言葉が蘇ってきた。

「山が見えたら、もっと素敵なのに」

生きていると不思議な事はある。
つい最近懐かしいと思い出していた光景の、理想の光景が目の前に広がっている。

このタイミングで忘れていた言葉を思い出すだなんて。
まるでこうなることが、初めから決まっていたかのような。まるで、運命のような。

車窓の奥では、筑波山に見守られる稲穂が、そよそよ風に揺れている。

その光景を観ていると、滾々と感情が湧いてきて、体の隅々にまで行き渡っていくのを感じた。
透明で清らかなものに満たされていく心が、ふるふると揺れ琴線に触れはじめる。

過去。現在。全てに共鳴しあった心が、ハーモニーを生み出していく。
穏やかでどこまでも優しいその音に、鼻の奥がツンとする。

鼻を啜りはじめた私に、母親が「アレルギー?」と心配そうに聞いてくる。

違う。違うよ。

心が溢れて零れそうなんだ。

そう伝えたかったけど、言葉にならなかった。

終点の下館駅に着くまで、私の心は共鳴の音を奏で続けていた。

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真岡鉄道は、茨城県の下館駅と栃木県の茂木駅を結ぶ、全長41.9キロの路線だ。

SLは、9月と10月を除く土日に運行している。※一部例外がある為、乗る際は要事前チェック

SL発車時刻の1時間前に着くようにしたのだが、SLのプラットフォームにはすでに人が居る。
家族連れ。カップル。撮り鉄の方だろうか、立派なカメラを持った人もちらほら。
皆、何故かプラットフォームの前あたりで待機している。

プラットフォーム後方のベンチに座りながら「皆さん早くから居るんだなぁ」と感心していると、踏切が鳴りだした。

ガタゴトと車輪の音を響かせプラットフォームに入ってきたのは、SL真岡の回送・補助をするDE10 1535。赤いガッチリとした車体は、ラガーマンのように頼もしい。
力強い走行に見惚れていると、その後ろに茶色い客車が3両と黒光りする車体の後ろ姿が見えた。SL真岡。主役のご登場だ。

車輪の回転音に混じって、蒸気を吐き出すシューッと言う鋭い音がする。
ブレーキと共に重たい金属音が、ガチャンと響いた。

ラガーマンの様な赤い車体を写真に収め、人だかりのある前方へと向かう。

これまでSLは博物館などで見たことがあるのだが、現役のSLを見るのはこれが初めてだ。

人の邪魔にならないよう後ろの方から、SL真岡をそっと伺った。

漆黒の重厚な車体は、まるでスチームパンクの世界から抜け出してきた乗り物のように見える。その一方で、歴戦の戦士といった貫禄も滲み出ている。
非常に格好良い。
つい何枚も写真を撮ってしまった。

車体待機の間、汽笛の音と黒煙を吐き出す姿を堪能出来るので、早い時間に行くのはおすすめだ。

SL真岡の車内は、緑色のボックス席とロングシートの2種類がある。天井には細い蛍光灯と古い型の扇風機があり、荷物を載せる網棚は金属製というレトロ感満載な作りをしている。
ボックス席に座ることが出来たので、ここでも写真をいっぱい撮ってしまった。

午前10時35分。

汽笛が鳴り、車体がゆっくりと動き始めた。
シュッシュッと言う音に、ガタンゴトンと重いジョイント音も響く。
窓の外では、黒煙がスーッと流れていく。
電車では決して見られない光景だ。

SL真岡には扇風機以外の冷房がない為、乗客の多くは窓を開けている。
その窓から、黒煙が入り込むからだろうか、車内は不思議な香りがする。
木が燃えた時とも、炭の香りとも違う。
これまで、体験したことがない香りだった。

車内で読もうと、銀河鉄道の夜を用意していたのだが、読もうとして驚いた。
表紙がザラザラとしている。
どうやら窓から入り込んだ煤がついてしまったらしい。
これまた電車ではあり得ない経験だ。
本を読むのではなく、SLを堪能しなさいという事だろう。
内心感動しながら鞄の中に本をしまい、SLに身を任せることにした。

SLが走るリズムは、電車のリズムとは異なる。
通常の電車は、ガタンゴトン…ガタンゴトン…とリズミカルだが、SLはガタンゴトトン、ガタン。人のことをとやかく言えないが、意外とリズム音痴だ。
けれどそれがまた、味があると感じるのだからSLというのは不思議である。
…もしかしたら、贔屓が過ぎるのかもしれないが。

SLに乗っていると、手を振る人たちとよく出会う。
麦わら帽子を被った小さな子だけでなく、バスの運転手さんやカフェの店員さん。道を行く人や自家用車に乗る人たち。
皆がニコニコしながら手を振っている。

そういう人たちを見かけるたびに、私も母もそっと手を振り返した。

とても平和な光景だと思う。
その一方で、よく考えると不思議な光景だとも思う。

SLに向かって、或いは、SLの乗客に向かって、何故人は手を振るのだろう。
何故、手を振り合うと、こんなにも心がほっこりとするのだろう。

心理学の中には、ミラーリングという行為がある。
人の行動を真似することによって「共感」が生まれ好意などを抱くという効果があるが、それとも違う気がする。
もっと、人の奥底にある温かさの根源に繋がっているような──。

笑顔で手を振り返す人が、こんなにもいるのだと思うと、自分の人生も捨てたものではないなぁとしみじみと感じた。

沢山の初体験をしたSL旅の一部を文章で綴ってみたが、綴りながらも良い体験をしてきたなと心から思う。

また、こういう旅が出来ることを願いつつ。

────────────────────────
最後まで読んでくださりありがとうございます。
少しでも楽しんでいただけたら幸いです。

8/10/2024, 2:43:01 PM

終点。
SL旅をしてきた日にこのテーマとは。
何だか運命的だ。

今日一日で、たくさんの列車に乗った。

地元の路線を二つ。
つくばエクスプレス。
関東鉄道常総線(初乗車)。
お目当ての真岡鉄道(初乗車)。

電車、電車、電車、ディーゼル、蒸気機関車。
種類も豊富な上、初乗車のものもあって楽しかった。

関東鉄道常総線の終点「下館」を目指す車中での出来事と、人生初のSLについて…書きたいのだけど、今は眠いので、また明日。

おやすみなさい。
────────────────────────
おはようございます。

さて、何から書こう。
色々な体験をした日は、言葉が散らかり過ぎて困りものです。一つを拾うと、あれもこれも。時系列順に出てきてくれれば良いのに、ランダムで出てくるものだから、整理が大変。
一回眠りを挟んだので、少しでも整理されていれば良いのですが。さて。
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母親と行く親子二人旅。

車のない我が家は、電車旅が多い。
母親も私も、乗り鉄や撮り鉄ではないが、電車に乗ることは好きな方だ。

人生の中で一度は乗ってみたいと言い続けていたSLに今回とうとう乗ることになった。

SLの発車駅「下館駅」に向かうには、つくばエクスプレスの「守谷駅」から関東鉄道常総線へ乗り換え、「水街道駅」にて再度乗り換えが必要となる。

常総線「守谷駅」のプラットフォームにいると、母親が面白いことに気がついた。
通常、駅のアナウンスは「電車」という言葉を使うが「列車」という言葉を使っているという。
耳をすましアナウンスに注意を向けると、確かに「列車」と言っている。

プラットフォームに入ってきた車体を見て、納得した。
2両編成の車両の上部には、パンタグラフが付いていない。

調べてみると「ディーゼル」を使用した「気動車」と出てきた。

普段乗らない列車に乗るだけで、旅の気分は格段にあがっていく。

「下館」行きと書かれた列車に乗車したのだが、三駅先の「水街道駅」で乗り換えが必要だという。
通常、行き先の電車に乗れば、乗り換えは必要ないはすなのだが。路線ルールなのだろうか。とても不思議な感じがした。

「水街道駅」にて乗り換えをし、今度は一両編成で終点の「下館駅」へと向かう。
田畑が目立つ長閑な景色を列車は行く。
途中途中に止まる小ぢんまりとした駅も、味があって良い。

旅の気分を味わっていると、田園と筑波山の雄大な姿が織りなす、見事な景色が車窓に広がった。

薄黄緑。緑。時折、黄金色。

稲穂が風に吹かれている。

その光景を見て、思わず「あっ」と声を上げた。
一人散歩の時の景色が頭の中に広がっていく。
思い出の中の景色は、目の前の広大な景色よりも小ぢんまりとしたものだったが、記憶の彼方に置き去りにされていた、中学生の時の言葉が蘇ってきた。

「山が見えたら、もっと素敵なのに」

生きていると不思議な事はある。
つい最近懐かしいと思い出していた光景の、理想の光景が目の前に広がっている。

このタイミングで忘れていた言葉を思い出すだなんて。
まるでこうなることが、初めから決まっていたかのような。まるで、運命のような。

車窓の奥では、筑波山に見守られる稲穂が、そよそよ風に揺れている。

その光景を観ていると、滾々と感情が湧いてきて、体の隅々にまで行き渡っていくのを感じた。
透明で清らかなものに満たされていく心が、ふるふると揺れ琴線に触れはじめる。

過去。現在。全てに共鳴しあった心が、ハーモニーを生み出していく。
穏やかでどこまでも優しいその音に、鼻の奥がツンとする。

鼻を啜りはじめた私に、母親が「アレルギー?」と心配そうに聞いてくる。

違う。違うよ。

心が溢れて零れそうなんだ。

そう伝えたかったけど、言葉にならなかった。

終点の下館駅に着くまで、私の心は共鳴の音を奏で続けていた。

8/9/2024, 2:49:40 PM

上手くいかなくったっていい。

やってみようと行動したことが、凄いことなのだから。
最初の一歩を踏めたことをまず喜ばなくては。

失敗しても大丈夫。

歩みを止めない限り、必ずどこかしらに行き着き、出会うべき人に出会えるから。
ゆっくりゆっくり自分のペースで歩めば良い。

周囲には、徒競走している人や走っている人がいたりするかもしれない。
思わず「自分も走らなくては」と焦ってしまうかもしれないけれど、自分の心が否であったなら、走らなくても良い。
人は人。自分は自分。
それぞれの違いがあって良いのだから。

ゆっくり歩いていると、走っていたら見逃してしまう綺麗で美しいものたちに出会うことが出来る。

名前も知らない花や虫に、世界の多様性と懐の広さを教えられる。

失敗を怖がる必要もない。

斯くある世界に、受け入れられないものなどほとんどないのだから。

8/8/2024, 2:49:31 PM

蝶よ花よ…(゜゜)…愛されるイメージ
今日は昨日と違って睡眠もバッチリだし、寝落ちせず書ききるぞ!
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辞書によるところ
蝶よ花よ=子供をこの上なく大切に育てる様。
     多く女児に使う。

蝶よ花よ=箱入り娘の等式で結んでも差し支えはなさそうだ。

さて、自分はどうだったろうかと考える。

親や親族にそれなりに大切にされてきたという実感はある。
自分の事を「箱入り娘」と言うのは、何だか照れてしまうが。…まあ、良いか?

「箱入り娘」は、親や親族、出会う人にそれなりに大切にされてきたが、それ以外からも大切にされてきたことを誇りに思っている。

それは、言葉だ。

「箱入り娘」が困っている時、悩んでいる時、いつも言葉が「箱入り娘」を助けてくれた。

その種類は豊富だった。
励ましの言葉から、戒めの言葉、慰めの言葉、未来を示唆する言葉まで。
本やテレビ、ラジオ、人との会話。
言葉という言葉を介して「箱入り娘」の元に届いた。

言葉が届くたびに「箱入り娘」は、「生きなさい」と背中を押されているのを感じた。
力強く、時に優しいその気配に
「箱入り娘」は、言葉に生かされているのだと信じるようになっていった。

「箱入り娘」は年頃になると、自身に降り積もった言葉を使ってこの世界について考えるようになった。
何故?何故?何故?と言葉を投げかける度に、それまで受け取っていた言葉達が光り出す。

「これが答えかもしれない。いや、こっちも答えかもしれない」
パズルのピースを当てはめるように、言葉を当てはめ、言葉と戯れていた。そうするうちに、見えているものの奥に、隠れているものが見えるようになっていた。
それに気付くと、世界により色が満ちていくのを感じた。

蝶よ花よと大切にされた「箱入り娘」だったが、
テンプレートという、便利で、誰とも摩擦の起こらない画期的な道具を使ううちに、語彙を失うことになる。
それと同時に、かつて見えていた景色までも、表面しか見えなくなっていた。

それに気付いた「箱入り娘」は、ここで言葉と向き合うようになるのだった。



少しずつではあるが、取り戻した言葉で紡ごう。

雨に凍える人に、優しい言葉の傘をさそう。
己の道を行く人に、そっとエールを風にのせよう。
孤独に震える人に、静かに寄り添い一人ではないと伝えよう。

言葉は人を救う。

「箱入り娘」はそれを信じて、今日も言葉と向き合っている。

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