恋破れ
見上げる空に
朧月
6月1日「梅雨」
6月2日「正直」
…2023年の6月1日のテーマは「梅雨」で、6月2日は「正直」だった。
正直、過去に一度書いたテーマで別の文を考えるのは大変だ。
通常のテーマで文を考える時、私は、テーマに沿った一文を落とし込むことだけを最優先にしている。
正直、その一文が物語ないし与太話に落とし込めれば、テーマクリアで創作完了とすら思っている。
話の流れをそれとなく決めてから書くこともあるが、大抵オチや言いたいことを決めずに書き出してしまう。
書きながら物語の展開や言いたいことを考え、それとなくまとめていくという作り方は、もしかしたら創作としては邪道なのかもしれない。
本来創作というのは、伝えたい事を決めてそれを大切にしなくてはいけない。
それは十二分に理解しているのだが───。
創作の最中こちらの意志とは関係なく、登場人物がペラペラと話し始める時がある。
その内容がなかなかに面白い時などは、当初思い描いていた展開やオチを捨て、登場人物にお任せしてしまう。
そうすると、思わぬオチが生まれたり、本来思い描いていた光景とは違うものが見えたりする。
個人的に創作の醍醐味の瞬間だ。
その喜びに触れたいからだろうか、
邪道と思いつつもこの作り方をしてしまう。
しかし、同じテーマを扱う時はテーマに沿った一文を落とし込む前に前作と被るようにするか、しないかの選択からスタートすることになる。
ノリや気分だけで作ることが出来ない上に、テーマをどのような形で落とし込むかも再度考え直さないといけない。
本来の創作で必要とされているプランニングの作業が必須となる。
正直、邪道的な作り方をしている私にとって、正道というのはハードルが高い。
「行き当たりばったりではなく、プランを立てなさい」と、どこからか声が聞こえてくる。
その声に創作以外のことも含まれているような気がするのは、気の所為ではないかもしれない。
梅雨
この季節に雨が降らないと、作物は育たない。
植物にとっては恵みの季節だが、人にとってはジメジメ・鬱々・不快感を感じやすい季節だ。
恵みの季節と喜ぶ人は、少ないのではないだろうか。
作物を育てている人は、恵みの雨と喜ぶのだろうなと想像していたら、雨降りの先生が脳裏に浮かんできた。
雨降りの先生とは、「つむじ風食堂の夜」(著:吉田篤弘)の主人公だ。
友人の営む小さな編集プロダクションからの雑文を請け負って生計を立てている。
人工降雨を研究テーマに風俗史的な視点から文献にまとめたいと本人は思っているが、生計優先のため、研究は二の次となってしまっている。
住まいは、月舟アパートの屋根裏(人が絶句するような場所)。
「雨を降らせる研究をしているので、空に近いところがいいのです」と冗談を飛ばした結果、それが町内に広まり、「雨降りの先生」と呼ばれるようになった。
十字路にある食堂の面々からは、「先生」と呼ばれ親しまれている。
そんな雨降りの先生のエピソードで、特に印象に残っているのは、雨降り先生が若かりし頃のガールフレンドに用意したとっておきのセリフとそれに対するガールフレンドの返しだ。
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「ほら」
私は彼女を屋上のへりまで連れて行き、そこから、金網越しに雨に濡れた街を眺めおろした。
「すべて平等に雨が降っている」
「そうね」
こちらの意に反し、彼女はやはりどこか遠くの世界の方へと視線をさまよわせ、それから、
「でも、雨って、そのうちやむからいいんじゃないの?」
さも当たり前であるようにそう言った。
そのときの彼女の言葉が、いまでも頭の中に繰り返され、そのたび私は思わず「え?」と声が出てしまう。
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雨は、やむからこそ喜べる。
いくら水が必要な作物であっても、やまない雨を前にしたら根腐れして枯れてしまう。
逆に快晴ばかりもまた、干ばつの危機に瀕し、枯れへと繋がる。
どんなに必要なものであっても、過剰は身を滅ぼす原因となってしまうものだ。
雨が降ったら、やむ。
やんで、曇りや晴れの日があるからこそ、恵みの雨と喜べる。
何事も終わりがあるからこそ、良いのだろう。
ガールフレンドの主張に頷きたくなる一方で、雨降りの先生の「すべて平等に雨が降っている」という言葉の主張もわからなくはない。
雨が降っている範囲(屋内を除く)は、等しく濡れる運命だ。
雨の前では、偉い人だとか、子供だとか、男だとか、女だとか、何かである理由で差別されることはない。
きっと、先生にとって雨とは理想的な平等を体現しているものなのだろう。だからこそ、現実的な彼女の言葉に対して「え?」という反応に繋がったのかもしれない。
どちらの考えも一つ一つを見れば間違いではないけれど、肝心な部分で絶妙にすれ違う。
案外、そんなすれ違いばかりがこの世界では起きているのかもしれない。
理想と現実を纏った雨の季節─梅雨は、もう間近だ。
無垢=ユリ、オーニソガラム、アジアンタム
純真無垢=アネモネ全般
無垢の愛=カスミソウ
上記は、白い花が多いイメージだ。
「白色」からの連想で「無垢」の花言葉が付くのはわからなくもない。
一方、アジアンタムは緑の葉で、花も咲かないシダ植物である。それなのに「無垢」という花言葉がついているのだから驚きだ。
花言葉を調べるついでに由来を調べてみると、なかなか面白いことがわかった。
アジアンタムは、小さく繊細な葉が花のようにみえることから、花言葉がついているらしい。
アジアンタムの英名は「Maidenhair fern」
英訳は、「乙女の髪のようなシダ」
乙女は、無垢の花言葉へと繋がるらしい。
かつて乙女だった時分もあるが、実際の乙女は…言わぬが花だろう。
終わりなき旅
終わらない旅、か…。
親から子へと連綿と続く人の歴史は、
人という存在がある限りという条件が必要となる。
人よりも長寿の木や石も風化して、何れは姿を消してしまう。
この世界にある限り、時間の縛りはある。
この世で消えず、旅をする存在なんてあるだろうか。
無い頭を必死に捻って唸っていると、目の前にカードが出てきた。
久しぶりのカードには「水」と書かれている。
なるほど。
人や動植物にとっても欠かせない水は、常にこの世界で循環し続ける。
その様は、終わりなき旅と言えるのではないだろうか。
もしかしたら人や動植物と違って、地球が終わる日まで、粛々と循環の旅をしているかもしれない。
たくさんの命を支える偉大な存在は、今この瞬間も世界中の彼方此方を静かに旅しているのだろう。
地球の異名「水の惑星」は、伊達ではないようだ。