「たまには休むか」
そう思いつつも、
アプリを開き文字を打ち込む。
「習慣化したのだなぁ」と、
しみじみ思う。
空から言葉が降ってくる──
そんな異常なことが、ここでは日常茶飯事だ。
思考の海を眺める男の頭上では、今日も言葉が降り注いでいる。
「本体が本でも読んでいるのか」
男は呟くと、空の文字に意識を向けた。
小説でも読んでいるのだろう。長い文がズラズラと降ってくる。
その中に一瞬煌めくような光り方をした文字があった。
「おや?」と思った瞬間には掻き消え、文字の判別をする暇も与えられなかったが、アレは…。
「…惜しいな」
あの光り方は、本体が記憶の彼方に追いやった単語だ。久しぶりに巡り会えて本体も思わず「おっ」とでもなったのだろう。しかし、掻き消えたということは本体は話の続きを優先したようだ。
上手く捉えることが出来れば彼女への土産になったのに、惜しいことをした。
「またの機会か」
歳を重ねるほど本体は言葉を忘れていっている。
単語を見て懐かしいと思う気持ちがあっても、今一度言葉の意味を捉え直そうとはしないし、出会った単語もすぐに忘れる。
忘却が生きる為の装置とはいえ、些か淋しいと思ってしまう自分は、おかしいのだろうか。
空からやって来る言葉を好んでいなかった自分が、今更何を言うのか。そう冷ややかに思う一方で、ようやく会えた彼女と、懐かしい言葉の話をしたいと望む自分が居る。我がことながら、どうしてどうして思考が纏まらない。
素直さをなくしたからだろうか。
或いは、一度嫌ったものを再び好きになるという事に抵抗があるのだろうか。もしくは、強情な面が災いしているとも言えるかもしれない。
分析すればするほど凹みそうだ。
面倒くさい自分とは真逆の彼女ならば、本体が忘れた言葉も大切にコレクションしてくれるだろう。
彼女が喜ぶためならば、何でもしたい。
この気持ちは昔から変わらない。
空からの文字はまだまだやってきそうだ。
良い言葉を見繕って彼女への手土産としよう。
そして、昔のように彼女と言葉遊びでも興じようか。
そうすれば、少しは素直さを取り戻せるだろうか。
男は僅かな自虐を込めた笑みを浮かべると、空の文字へと意識を向けた。
大好きな君に素敵な言葉のプレゼントを。
ひなまつり
我が家は陶器で出来たお内裏様とお雛様を飾る。
三人官女も五人囃子も右大臣も左大臣もいない。
橘も桜も、菱餅も飾らない。
主役二人以外にあるのは金の屏風と緋毛氈のみ。
実に慎ましい雛飾りだ。
一年クローゼットに眠っていてお腹がペコペコだろう。
雛霰を小皿に盛り、二人の前に置く。
「仲良くどうぞ」
私の声が聞こえたのか、陶器の顔に柔らかい笑みが浮かんだ。
二人だけの世界、素朴な菓子で和んでもらえれば幸いである。
ライブ。
音楽或いは劇等を生で体感するもの。
非日常空間を楽しむ娯楽の一つだ。
私は年に数回、朗読の観劇を自分への褒美としている。観劇という楽しみの為に仕事を頑張っていると言っても過言ではないかもしれない。
その日、いつものように情報の海を漂っていると、見つけてしまった。
学生時代好きだったアーティストのライブ情報。
音楽ライブも過去に経験したことはあるが、片手に満たない程しかない。今回は学生時代好きで、なおかつ人生で一度は体験してみたいと思っていたアーティストのライブだ。
お年玉で買った一枚のCDを何度も何度も聴いていたあの頃の私が「ライブに行ってみたい」と騒ぎ始めるのに時間はいらなかった。
心の中、いや、頭の中で学生時代の自分の声が響いている。
やれ、生で聴いてみたいだの、あの歌が聴いてみたいだの、会場の雰囲気を楽しみたいだの。
まさに子供のような無邪気さで語りかけてくる。
──学生時代の気持ちを叶えてやろう。
当時は金銭面、年齢面で諦めていた私だが、大人となった今なら、どちらも気にする必要はない。
問題はチケットが取れるかどうかであるが、こればかりは運任せでしかない。
プレオーダーの日を指折り数え、チケットの予約を入れた。
抽選で当たればかつての自分が喜ぶだろう。
抽選結果の日を楽しみに私は仕事に励んだ。
抽選当日、メールが届いた。
はやる心のままメールを開くと
【チケットのご用意ができませんでした】
無情な文字に心が死んだ。
いやいや、まだ諦めてはいけない。もう一つのチケットサイトでプレオーダーを行っている。
チケットサイトへ飛び、三公演全てに申し込みを入れた。朗読劇の時は、行きたい日の一公演だけしか応募しないので、こんな冒険はしたことがない。
もし、三公演取れたら気分爽快だが、金銭面も爽快に吹っ飛んでいく初体験となる。一公演でも引っかかれば儲けもの。
当たれば、わぁー!!
ハズレれば、わぁ…。。。
どちらに転ぶかドキドキしながら抽選日当日を迎えた。
メールが三通届いた。
一公演目【ご用意出来ませんでした】
大丈夫あと、二つある。
二公演目【ご用意出来ませんでした】
ラスト一つがある。頼む…。
三公演目【ご用意出来ませんでした】
わぁ……。。。
最後に残された、たった一つの希望。
早い者勝ちの文字通りチケット戦争に一縷の望みをかけるしかなくなった。
チケット戦争は十時に始まる。
チケットサイトにログインして、戦争開始時間の十時丁度を待つ。
十時。
私は対象ページへ飛び、チケットの枚数を選択。
次へを押し、ログイン情報を簡易入力、順調な滑り出しだったが、ログイン情報が弾かれた。
おかしい。
先ほど使った時は、何の問題もなく入れたのに。
焦りつつも枚数指定、ログイン情報を繰り返すが、またも弾かれた。そうしている内に混戦となったのだろう。ページそのものに入れない時間が続き、入れた時には全公演SOLD OUTとなっていた。この間僅か2分あまり。
何とも短期決戦のチケット戦争は敗退となった。
ここまで清々しく手元をすり抜けると笑うしか無い。
まったく、本人よりチケットの方がステルス能力高すぎではないか。
いや、そもそもステルスという概念や定義に疑問が…。
思考が迷子になりそうなのでやめておこう。
「配信があれば良いね」
そう呟くと、体の中で若い声がケラケラと笑っていた。
「楽しそうで何より」
チケット戦争はなんだかんだ面白い。
チケットを手に入れて行ければラッキー、行けなくても楽しい。
心がドキドキワクワクする感覚は、私にとって喜びだ。
欲望ね、欲望…。
単純なようで厄介なものを好みますなテーマとやらは。
欲望なくして今の発展は無く
欲望なくして人は生きられぬ
過ぎれば厄になり
足らざれば人ならざりけり
中道を行くが人ならば
中庸を定べし
くれぐれも欲望に溺れぬよう
飼いならしてこそ人たりえる…かもしれない。