二人だけの。
ずっと、部屋の姿見鏡とギクシャクしていた。
それは年々体型が劣化してゆくのを、何とかしなさいよ!と鏡が責めてくるからだ。
こっちだって分かってはいる。
だからピラティスとかウォーキングとかやってみたけど、続かないんだもん、そもそも体動かすの苦手なんだもん。
が、鏡と目も合わさなくなった頃、家で出来るシンプルなエクササイズに出合って、気づけば半年続いていた。
「やれば出来るじゃない!」
鏡は大喜びだ。
「背中がスッキリしたし、首周りが細くなったよ。二の腕と足も」
「本当にそう思う?家族は誰も気づかないけど…」
「本当だって」
そんな訳で優しくなった世界、ただし私と鏡だけの。
良いのだ、気休めでも誰も気づいてくれなくても。
ちょっとおしゃれが嬉しくなって、ちょっと毎日幸せが増えれば。
夏
子供の頃はみんなやっていたと思う。
夏、扇風機の前で裾を持ち上げ、服の中に風を通して体を一気に涼しくする技。
ワンピースが一番やり易かった。
大人になってもお風呂上がりにこっそりやっていたが、今年は夫が扇風機を二階へ持って行ってしまった。
となると、代わりになりそうなのはリビングのアレしかない。
「何してるの?」
だからね、そういう事情でサーキュレーターを跨いで仁王立ちしてるんです。
真下から風を取り込んでるんです。
そんなびっくりした顔しないでよ。
隠された真実
ここはレトロな隠れ家的純喫茶で、私は店のマスターだ。
新顔の若い男女客が、カウンターの端で大変な秘密を打ち明け合っている。
「実は俺、狼男なんだ。今まで言えなかったけど…」
「じゃあ私も…本当は25歳じゃないの」
「えっ、いくつ?」
「125歳。昔うっかり人魚のお肉を食べちゃって」
「そうなんだ。でも俺、歳の差なんて全然気にならないよ」
「私も毛深い人、全然平気」
信じがたい会話が聞こえ、何だかんだ好き合っていそうな彼らを私は愕然と眺める。
ただ二人とも気づいているかな?
この店も私も、とっくにこの世のものじゃないことを。
隠されたこの場所に、生ある者がどうやって迷い込んだのか。
あと数分で日が落ちて、死霊の常連客たちが押し寄せてくるのだが。
風鈴の音
南部鉄器の風鈴が、狂ったように鳴っている。
独居の伯父が緊急入院した日のまま、軒下の雨風に煽られて。
聞く人のいなくなった風鈴の音は、風の悲鳴のよう。
お爺ちゃんが帰って来ない!
びしょ濡れで叫ぶ風鈴をそっと抱き下ろして連れて帰る。
おいで、私の所へ一緒においで。
拭き清めて新しい短冊を付けてあげる。
悲しまないでまた涼やかに歌って。
そして皆で、お盆を待ちましょう。
心だけ、逃避行
暑い。
こんな日は鱧の湯引きが食べたいな、ガラスのお皿に涼しげに盛って、酢味噌を添えて。
焼き茄子も良いな、冷たくした翡翠色の茄子にたっぷり生姜を乗せて。
それから茗荷を混ぜた胡瓜もみ。大葉を散らした冷奴。
どれが食べたい?と夫と息子に聞くと、即答でいや肉!肉!肉!
肉焼くだけでいいからね!野菜とか混ぜなくていいから、ガッツリ!
28センチのフライパンを取り出しながら、私の心はじわじわと、無への逃避行を始める。