【沈む夕日】
レースカーテンを靡かせて、冷えた空気と海の匂いを巻き込んだ潮風がアトリエに吹き込んできた。顔にかかった髪を払い窓へ視線を向ければ、太陽を飲み込もうとする海が赤くに染まっていくのが目に入る。
「……なんか、寂しいね」
「寂しい?」
ぽつりと床に落としたはずの呟きは耳聡い彼に拾われ、少し離れた所で絵筆を持ったまま首を傾げる姿が視界の端に写った。
「うん。夕日を見ていると、そんな気分にならない?」
ゆっくりと青に沈んでいく赤を眺めながら言葉を投げかければ、彼もそちらへ視線を向ける。
「そうかな」
「そうだよ」
潮風に熱を奪われた指先を擦り合わせて一つ瞬きをした。
「夕日が嫌いかい?」
「ううん」
首を横に振る。
「でも、見ていると寂しくなって、綺麗だけど、胸がぎゅうっと締めつけられて苦しい様な感じがするの」
「ふうん」
聞いてきたのは彼なのに、随分と素っ気ない返事が寄越されてしまって苦笑する。
「興味無さそうだね」
「そんなことはないよ。君の事なら何でも興味津々さ。ただ、」
彼が絵筆を置いてこちらを見た。私も窓から視線を逸らして彼を見る。
「寂しいのなら、どうしてそんな所にいるんだい」
「え?」
「僕と一緒にいるのに、どうして1人で感傷に浸っているのさ」
ほら、とスツールに腰掛けたままの彼が両腕を広げた。彼の目を見れば、優しげに緩んだそれが見つめ返してくる。戸惑いながらも一歩、二歩とゆっくり足を進めて彼の前へ辿り着くと、思い切って彼の腕の中へ飛び込んだ。おっと、と声を漏らしながらも受け止めてくれた彼は、そのままぎゅうと強く私を抱き締める。
「ちょっと、痛いよ」
「これでいいんだ」
抗議の声を上げても取り合って貰えず、諦めて脱力すれば、彼の手が私の髪を梳いて、それから小さなリップ音が聞こえた。
「何してるの?」
「気にしなくていいよ。それより、まだ胸は苦しいかい?」
「へ?」
抱き締められたまま、耳元で尋ねられる。一瞬考えて、「こんなに強く抱き締められていたら、そんな事考える余裕もないよ」と返せば、「だろうね」と頷く気配がした。
「もう、何がしたいのよ」
「だって君が変なことを考えているから」
「変?」
胸板に手をついて体を離す。彼の顔を覗き込んで首を傾げれば、彼はまた頷いた。
「夕日を見て感傷的になる、君のその感性は大切にすべきものだ。でもそれは、僕と一緒にいる時には必要のないものでもある」
「……あなたの言う事はいつも難しいよ」
眉を寄せて返せば、僅かに口角を上げた彼が少しだけ距離を詰めてくる。
「そうかい?そのままの意味だよ。僕といる時の君に寂しさなんてものは無縁だし、胸が締め付けられて苦しいというなら僕がこうして体ごと締め付けて、そんな事考えられなくしてあげる」
彼の指先が頬を滑り、細められた瞳が私を捉えた。
「つまり、慰めてくれてるの?」
「そうとも言うね」
ちゅ、と額に唇が落ちてくる。
「別の言い方があるわけ?」
「…………」
頬に触れた彼の手に自分のそれを重ねて見つめ返すと、彼の目が僅かに揺れた。
「ねえったら」
「……これから先夕日を見る機会なんて山ほどあるのに、その度落ち込まれたんじゃ適わないからね」
「面倒くさいってこと!?」
「あ、いや、そうじゃなくて!」
思わず顔を顰める。慌てた彼がぶんぶんと首を振って、それから片手で口元を覆って息を吐いた。
「その……、君が落ち込むのを見たくないというか、…………僕以外の事で感情を振り回されるのを、あまり見たくないというか」
ぱちりと目を瞬かせて彼を見る。気まずそうに目を逸らした彼の耳が僅かに赤く染っているのを見て、衝動的に彼の額に口付けた。
「は、」
「もしかして夕日に嫉妬してるの?」
大きく見開かれた瞳がこちらを見る。口角が上がってしまうのを自覚しつつ見つめ返せば、口を尖らせてふいとそっぽを向かれてしまった。
「……そうだよ。悪い?」
「まさか!ねえ、拗ねないで、こっちを見てよ」
ふわふわの髪を指で梳く。染まった耳に唇を押し付ければ、彼は大袈裟なほど体を跳ねさせて勢いよく私を見た。
「ちょっと、何を……!」
「嬉しいよ」
こちらを向いた頬を両手で捉えて距離を詰めれば、彼は息を呑んで黙り込む。
「夕日に嫉妬するほど、私の事を想ってくれて嬉しい」
「…………」
「あなたと一緒にいれば、寂しい思いなんてしなくていいんだものね」
「……うん、そうだよ。寂しさも苦しさも、君が感じる前に僕が全部塗り潰してあげるから」
じわじわと彼の頬が熱を持つのを感じながら、ふと思う。
「あなたの目って少し夕日の色に似ているね」
「え?」
顔を寄せて至近距離で彼の瞳を覗き込んだ。彼の頬にさっと赤が差すのを横目で見ながら、笑みを零す。
「あなたは夕日を寂しく思う感性を大切に、って言ったけど、もうそんな事考えられなくなっちゃった。これから先はきっと、夕日を見る度あなたを思い出すよ」