永遠に求めるものほど刹那的であり幸福的なのではないだろうかと考える。
人間は大小の幸福を求めて上り下りを繰り返す。
人生には波があるから感動できるし感謝もできる。
永遠という垂直線を横に伸ばした時に感情という球は転がりそうにない。
自分にとってのユートピアは他者から見ればディストピアだ。
自分の【好き】に囲まれた世界は、酷く狭く限定的で【嫌い】を排斥していくのだろう。
理想は理想だから許される。
現実は歪だが、理想という名の切り捨てよりかは遥かに良い。
理想郷は自室の狭さくらいがちょうど良いのかもしれない。
反省は好きですが回想はあまり好きではありません。
日々の忙しさに救われるタイプの人間です。
思い出という情報の羅列は自分にとっては甘美的で、浸り始めると時間を盗まれてしまうので、普段は接しないようにしています。
今回のようなテーマで短時間のみの思い出しなら精神衛生上よろしいのかもしれません。
さて、懐かしさに焦点を当てて物を観察していくと、一つの物体は色んな自分の過去を覗かせてくれます。
例えば、我が家の卓上の醤油。
昔の自分が使っていた商品と違えども、醤油をうっかりこぼして服にシミを作り、母に怒られた記憶が蘇ります。
父が道の駅で買ったみかんを見れば、昔は家族でみかん狩りに出かけたなー、幸せだったなぁとかです。
普段何気なく自分が囲まれている物体も視点を変えて観察すると、その物体以外の情報も重ねているのがわかります。
物事の物だけでこれですから、これに事象などを当てはめてみると、思い出の情報量は手に負えなさそうですね。
懐かしさという観点からしてみると自分という存在は色んな思い出に包まれているのかもしれないなと考えたりしました。
そのように考えてみると、あまり悲観的にならず気楽に日々を送れそうだなと能天気ながら思ったりしたのでした。
フィクションのifストーリーには心躍る。
現実のたらればには辟易する。
他人事の嘘と可能性は娯楽になり得る。
自分にあった可能性と塗り固めた嘘は、苦痛となり心を縛りつける。
嘘は眺めるに限る。
そんなことを嘘つきの自分は思ったりしたのでした。
極貧生活の幼少時代、電気とガスが止められて、夜は蝋燭の灯火だけが私に安心をもたらしてくれました。
何も娯楽は与えられず、せめて時間を潰そうと考え、勉強をしようとすれば、親に自分に対する当てつけかと怒鳴られ、自分が何をどうすれば良いのかわかりませんでした。
空腹と暗闇。
先のことなど考えられず虚無的でした。
あの感覚を絶望と呼ぶのだと思います。
家にも学校にも居場所はありませんでした。
普通という水準を満たしていない人間には学校という小さな社会に居場所はありません。
偏見と侮蔑と差別は今でも当たり前のようにありますが、これらがなくなることは、この先もきっとないでしょう。
家と学校という小さく大きな現実から逃れるために、ほとんど利用されてない寂れた図書館が私の居場所になりました。
現実を忘れるために本に逃げました。
ある時、一冊の本との出会いが私の人生を変えました。
本との出会いが私の寂しさを埋めてくれました。
生きるための知識と考える力を私に与えてくれました。
多くの物理的な暗がりはどうにかすることができますが、知識の暗がりは自分が暗いという判断さえも下すことはできません。
知識と思考は社会の暗がりを照らしてくれます。
それは生きる希望となります。
自分がどうすれば良いのかわからない時、苦しい時に、もしよければ本を頼ってみてください。
同じ悩みをどうにかしたいと考えた著者からのメッセージはあなたの力になってくれますよ。