NoName

Open App
1/18/2024, 1:15:38 PM

椎名林檎の音楽

 まず、これから「少女性」について論じるに当たってその意味を明確にする。世間一般ではこの言葉はあまり馴染みのないものであり、辞書にも記載が無いため、使う人によって意味が違っていることがある。ここでは、「幼い女の子のような」という直接的な意味では用いず、藤澤佳澄さんの論文である『女性における「処女性」に関する臨床心理学的研究:「少女性」との対比から』より、『「何にも制限されず、自分のなりたいもの何にでもなることができる」自由な意識そのものであり、またそのような「自由」を追い求める心性でもある。』という意味を借用する。
 わたしは椎名林檎が作る音楽を聴く中で、少女性を感じるとることが多い。『重く濡らした瞼は今よろこび映す日の為心を育てているのね(カーネーション より)』『生きている 夜と昼 泪に暮れても 今日はなにかいいことがありそう(幸先坂 より)』『これが人生 私の人生 鱈腹味わいたい 誰かを愛したい 私の自由 この人生は夢だらけ(人生は夢だらけ より)』など、彼女の作品には、悲観的にならずに人生そのものを肯定するような歌詞が多く見受けられる。それらは、人生のすばらしさやよろこびを、さまざまな視点から修辞的な文章で写しだす。その姿勢が、少女性を孕んでいると感じる理由であろう。
 しかし、彼女の作品はどこか大人びていて、少女性とは相反する成分があるとも感じる。それは、文学的な歌詞の書き方や、ジャズやクラシックを感じさせる音楽性や、楽器隊の技術の高さから感じるものだ。
 椎名林檎の音楽は、対立するこの二つが同時に成立することにより、誰もが子供時代に一度は考えていたような都合のいい理想の世界を、知識や人を動かす力を大人になって得ることによって、あどけなさを感じさせることなくうまく表現している。それはまさにユートピアであり、そのために人々は彼女の音楽に魅了されるのではないだろうか。

テーマとは全く関係ないです…