ずっと夢を見ていたい。
人生で何度願ったことか。
現実という地獄はいつも私を追い詰める。
失敗の許されない課題。
間違えたら孤立する人間関係。
時間という概念にすら追われてしまう。
睡眠時間もろくに取れない日々が続くと、
つい、願ってしまうのだ。
夢はいつでも自分の味方でいてくれる。
お金持ちになる夢。
嫌いな先輩を蹴飛ばす夢。
好きな人とデートする夢。
魔法だって使えてしまう。
逃げ道のない私にとって、
まさに夢は天国そのものだった。
ずっと見ていられたら、どんなに幸せだろう。
ピピッと、世界で1番嫌いな音が鳴る。
今日も地獄へ連れ戻されてしまった。
学校なんて行きたくなどない。
将来なんて見えやしない。
夢なんてないから、やる気もない。
そんな私を嘲笑うように、職業体験が始まる。
適当に選んだパン屋さん。心底後悔した。
朝は早い、肉体労働、厳しい叱責。
店長の鋭い視線と舌足らずな暴言が刺さりに刺さる。
やってられない、パンの匂いで嘔吐きそうになった。
ついにやってきた開店時間。
看板を立てる役目は、私だった。
板を持ち外に出ると、
待っていた常連らしき客が並んでいた。
「おっ、やっと開くか」
寒空の中、腕をさすり独り言ちていた。
そんな寒い思いをしてまで、
ここのパンが食べたかったのだろうか。
近くにはコンビニ店だってある。
品揃えこそ劣るが、味は申し分ないだろう。
何故わざわざパン屋に来るのか、わからなかった。
「いらっしゃいませ」
マニュアル通りに、大きな声に笑顔を乗せて挨拶する。
間違えてはいけない。それだけを頭に入れていた。
「おすすめはありますか?」
「焼きたてのカレーパンがおすすめです」
教えられた定型文がすっかり口に馴染む。
食べたことも無いパンを勧めることに抵抗などない。
板に付いてきたパン屋の業務。
叱責も失敗も、初日より減っていた。
それでもふとした瞬間に、考えてしまう。
辞めたいと、逃げ出したいと願ってしまう。
睡眠時間は、削れていく一方だった。
ある日、あからさまに体調が悪かった。
頭が重く、足が動きにくい。腕は他人の物のようだ。
それでも行かなくては、体験と言っても仕事は仕事。
休むなんて選択肢は、頭になかった。
当然上手くいくわけがなく。
小麦粉を撒き散らし、パンの焼き加減を間違えた。
レジ打ちでは料金を見間違え、挨拶も儘ならなかった。
絶対に怒られる。打たれるかもしれない。
それでも謝らなくては。私が全て悪いから。
「本当にごめんなさい」
言い訳なんてしない。全部私が悪いから。
体調が悪いなんて、免罪符にもならない。
仕事を失敗すると言うのは、そういうことだろう。
頭を上げられない。店長の顔が見れない。
「顔を上げろ」
やはり頬を打たれるのだろうかと覚悟し、
言われた通り視線を上げる。
しかし思っていたような衝撃も叱責もなく。
「反省はよく伝わった。初心者には失敗が付き物だ。」
と、笑い飛ばした。
「賄いの時間だろう。とびきりのパン、焼いてやる。」
とびきりのメロンパンが私の心をふんわりと包み込む。
店長の優しさが身に染みて、
柄にもなく声を出して泣いてしまった。
黄昏時、子連れの親子がパン屋に訪れた。
「おすすめはなんでしょう」
子供の手を握りながらお母さんが聞きに来た。
「とびっきり甘くて美味しいメロンパンです」
子供の嬉しそうな声が店に響いた。
職業体験も最終日。
色々あったけど、確かに充実していた。
睡眠を惜しむほど、パンについて考えた日もあった。
ずっと失敗は許されないと、
間違いは正せないと思っていた。
そんな価値観が崩れるほどに、濃く鮮烈な日々だった。
まだ将来なんてよく見えないけど、
進みたい道は定まったような気がした。
順風満帆で全てが上手くいく夢よりも、
波乱万丈で先の見えない人生の方が楽しいと気付けた。
将来の夢は何にしようか。
確かにパン屋はいいけど、肉体労働がしんどかった。
もう少し楽な仕事はないか、なんて。
未だに楽な方へ逃げようとする自分に呆れもするが。
それでも譲れない確固とした意思はある。
苦しい時に寄り添えるような優しい食べ物を作りたい。
慰めるでも励ますでもなく、包み込むような優しさを。
そう思うだけで、地獄から抜け出せたようだった。
夢を見るってこんなに素敵な事だったのかと、
今まで知らなかった自分を悔やんだ。
ずっと夢を見ていたい。
寝て眺める夢じゃなく、起きて望む夢を。