愛があればなんでもできるか?
ここはできる!と胸を張って、誇らしげに言えたら
いいが、正直なんでもはできないのだ。
自分の立場、責任、秩序、等など、まあなんでもの度合いにはかかってくるが、なにかとなんでもできない理由が多い。
それでも、できることはなんでもしてあげたい、
したいと思うのが、愛なんじゃないだろうか。
敢えてしない、のも愛ではあるが。
つまり、なんでも、のものによるのである。
それでも、なんでもしてあげたいと思われるほど、
愛されてみたいものだ。
私の後悔は、今である。
今この時、深夜2時過ぎ。
丑三つ時まで起きているという、今この時である。
少しでもこの後悔を軽くしようと、今文を書いているのだが、この行為こそ、更に夜が深け、後悔を助長させている気もする。
そんなことを思いながら 、【後悔】にも色んな種類が
あるのだなと考える。
私みたいなくだらない後悔もあれば、人生を左右しかねない選択を後悔することもある、のだと。
私は後悔することは、決して悪しきことではないと
思っている。後から悔いる、すなわち自らの失敗を振り返り、反省しているということじゃないか。
失敗を認め、ああすれば良かったなと考えられるということは、前に進めることの一歩目だと思う。
後悔した経験から、様々な選択肢や思考がきっと広がるはずだ。
だから皆さん、後悔を前向きにとらえ、ポジティブシンキングにいきましょう。
ちなみに、私の夜更かしは後悔したところで、過ぎ去った朝の時間や、寝不足の体はどうにもできず、無意味でありポジティブに捉えることは、困難であった。
後悔には種類があるなと身をもって実感した。
風に身をまかせ、飛んだり舞っているものを
色々と見た。
鳥、蝶、葉っぱ、他にもビニール袋。
電線、その辺の草木、歩いてる人の髪だって。
左右、上下、風に身をまかせているのか、
振り回されているのか、舞ったり飛んだり靡いたり。
初夏の風は実に気持ちが良さそうである。
「あっ!」
何かを見つけ、駆けていくあなた。
随分と逞しくなった背中を私は見つめる。
出会った頃と比べると、まろかった頬もほっそりと、
私より幾らか小さかった背丈もスラリと伸びて。
そんな少し昔のことをぼんやり思い出していると
最近は大人ぶって澄ましている顔をほころばせ、
あなたがまたもや駆けながら戻ってきた。
差し出された手元を見ると、
キラリと空を反射させる綺麗なビー玉。
「あそこに落ちてて、綺麗だから取ってきた!」と
無邪気に、嬉しそうにあなたは話す。
図体が大きくなっても、まだまだこんなところは子供のままだな、と少し呆れるように笑ってみせるが、
あの頃と変わらないあなたの姿が、
たまらなく私を安堵させる。
あなたはこれからもっと身も心も成長していくだろう。
それでも心の内、少しの部分でもいいから、
子供のままな、無邪気な姿を見せ続けて欲しいと
私は思う。
恋人、家族、友人、等様々な人に対し、愛について描く作品は多い。
素敵な話が数多くあるが、
敢えて私は推しへの愛を叫ぼう。
愛といったら1番に想像するのは恋愛だろうが、
別に私は推しに恋愛感情がある訳ではなく、付き合いたい、結婚したいなんてことは思っちゃいない。
そもそも2次元に存在しているため、現実問題出来やしないが、自分が画面の向こうへ行くことがもし可能だとしても、そうなりたいとは思わない。
だが、推しには笑顔でいて欲しい、美味しいものを食べて欲しい、楽しい思いをしてほしい、なんて色んなこととにかく幸せになってほしいなんてことを思い願う。
これも飛び切りの愛であろう。
それに私はその愛する推しについて考えるだけで仕事も頑張れるし、日々楽しく、幸せに思えるのだ。
なんだコイツ、なんて思ってくれても構わない。
でも愛を叫ぶって本当に非常に、嬉しく幸せなことなのだ。
私は推しへの愛を叫ぶが、これって別に推しじゃなくたって、恋人や家族、友人であっても当てはまることではないだろか。
だから皆さん、愛を叫ぼう。