閉ざされた日記____
2020年4月8日から2024年1月18日。
誰にも見せず話さず心の中に溜め込んだ気持ち。
中学一年生から書き続けた日記。
126988文字。原稿用紙250枚。
私の全部が詰まった12万文字。
私の過去が詰まった250枚。
この世界は____
今でも鮮明に覚えてる。
初めて一人で見た映画は吐瀉物の味がした。
「おえっ」とお手本のような嘔吐音が出る。私は、ポップコーンが大量に入った箱を抱えて吐き始めた。周りの目を気にして必死に口を押さえるが、止まるわけもなく、お昼に食べた牛丼と甘いキャラメルの匂いが混ざり、鼻が曲がりそうだ。映画館を出ようとしても立ち上がることすら出来ない。
吐き気が治った頃、私は姿勢を低くしそそくさと映画館を後にする。急いでトイレへ駆け込み、原型のないポップコーンをトイレへ流した。しばらく個室で呼吸を整え心拍数を落ち着かせる。それが小学5年生のときのこと。
その日からわかった。幼い頃からジブリや細田守監督の作品を見た時に感じていたぐちゃぐちゃの正体が。美しすぎて、綺麗すぎて、感情が揺さぶられすぎて、限界を超えると嘔吐するんだ。妙に納得した気持ちと、私は好きなものが気持ち悪いと感じる矛盾した自分に対しての怒りが生まれた。心の底から好きなものが見られない、聞けない、感じれられない。この世界は美しすぎるんだ。そのせいで私は私が汚れて見える。
今年の抱負____
自己嫌悪する自分を受け入れたい。
寂しさ____
2023/12/19
1人でいる子。椅子に座ってじっと本と睨めっこしている子。本当は読んでるんだろうけど、私にはそうとしか思えなくて。心のどこかで「あぁ寂しそう」だなんて思ってる自分がいて。
だから、1人でいたり、あまり話せないような子にたまに話しかける。そうやって誰か1人の人に話しかけてる自分に対してどこか、あぁ私って優しいな、なんて感情がある。自分が上でいられる、自分が優しくていい人でられるのが心地いいと思ってしまうんだ。
「友達が多くて明るいのに、私たちみたいな日陰にも気づいてくれるの。クジラだけだったよね」
高校を卒業して、たまたま中学の時の友達と会った時にその言葉を言われた。
違う。そうじゃない。私は、本当は最低の人間で、酷い人間で自分のことしか考えてないようなやつで。そんな言い訳を言葉にした。感謝されることじゃない。逆に責めてほしい。その方が何千倍も楽だ。
それを口にしてはいけないのはわかっている。でも、自分でもなんて言ったかはあまり覚えていなかった。ただ自分はそんないい人間じゃないということを伝えたかった。
「で?」
小さな小さなガラスでできたハートにフックが引っかかってヒビが入った。涙が溜まる。
「で?」
更にガラスみたいなハートをカチカチと小さな音を立てて何回も系で強く引っ張る。涙が出る。
「えっ、そうやって仲良くなるのは普通の自然になる友達と何か違うの?」
違う。違う、はず。だって、罪悪感から生まれた友情と利益から生まれた友情は違う。でも、それってどっちも友情なのかな。言い訳をしたいのに、違う理由を言いたかったのに、出た結論はどっちしろ最低な友情だということだけ。
「そっちの勝手な罪悪感で、こっちのいい思い出塗りつぶさないでよ」
ガラスに開いた半径5ミリぐらいの穴にフックの糸が思いっきり引っ張られて割れそうになる。涙が溢れる。
そっちの勝手な罪悪感とこっちのいい思い出。
私から生まれた罪悪感はあっちにはいいことになっていて。初めて、考えが止まった。本当の本当に答えが出ないと思ったから。
優しさ、優しいふり。
何が違うかなんて相手の捉え方と自分の意思で変わってくる。そんなのわかってる。でも、私や楓にとっての優しいって言われることは全部優しいふり。
クズで最低みたいな私たちに取っての優しいふりをして、勝手に自己肯定感上げて、また優しいふりをして勝手に罪悪感を感じる。
最後に、「クジラ、1人で寂しそう」と言われた。
自分が思っていたことなのに、言葉にされると罪悪感とはまた違って心の痛さがあって。自分が思っていた罪悪感の言葉を他人から言われることが1番苦しいのかもしれない。自分を責めて出る涙と他人から責められて出る涙は雫の形が全く違った。
そして、他人から「1人で寂しそうだから」と自分が優しさのふりをしていた魔法の言葉を呪いの言葉だと言われて、今更気がついて、一番最低なのは私だったということにやっと気づいた。
とりとめもない話____
ただ話を聞いてほしいだけなんだ。
何もいらない。
「うん」
その一言。その2文字。
それだけでいい。それだけがいい。