昔から、何かいい事があると、その後に最悪な事が起こった。なので、いい事があっても喜ばず、なるべく安く無感情で居るように心がけてきた。感情の波が激しいと落ち込みも激しくなってしまうからだ。そのうちいい事など起きなくなった。多分、いい事でも認識しなくなったのだろう。腹立つ事や嫌な事はずっと覚えているし、ずっとイライラも残る。負の感情は何故か消えてなくならない。その代わり嬉しい事が起きても、すぐに打ち消す。例えば誰かが褒めたとしても、絶対に社交辞令と思ってしまう。以前、心療内科に行ったが、その先生はいかにも信用出来なかったのですぐに行くのをやめた。あんなのは人を馬鹿にしているだけだ。二度と心療内科には行かないと決めた。
……その話はいいとして、そうした生き方をしていった結果、ある程度ストレスがないと逆に不安に感じるようになった。コップにストレスという水が常に七割は入っていないと、怖くなるのだ。もっと言えば、九割入っていれば落ち着くのだ。明るく楽しい人生は、私の生き方ではない。暗くジメジメした沼地。それが私の人生だ。沼地はやがて、底なし沼となる。死ねば、其処に入っていく。何も残さずに。
「ここだけの話だよ?誰にも言わないでね」
そんな言葉からつい始まる女子の悪口話。小学二年か三年の頃、聞きたくもないそんな話を上手く聞き流していた。黙っていると聞いていないのがバレるので、相槌し、たまにはそうだけどねぇ、とかまぁねぇ、などと言葉を挟む。そうすると意外にも相手はちゃんと聞いてくれていると感じていたらしかった。何時しか一度も話した事のない違うクラスの女子までやって来たりしてしまっていた。私からすればいい迷惑だが、断る訳にもいかず、逆に上手く言葉を挟むのが大変だった記憶がある。
腹の立つ事はむしろ多いが、人に悪口を言うのは好きではない。ひたすら一人で腹を立てて終える。だから、誰にも言えない秘密だらけだ。……大体、秘密なんだから書いたりしない。
実家は借家だったので、子供部屋は姉と一緒だった。勉強机を二つ置けば、ほとんどスペースはなかった。私はあまり感じなかったが、思春期の姉は嫌だったに違いない。しかし姉は不満を言わなかった。部活で夜遅く帰ってくるからという理由もあったろう。だが、お陰で私は姉の聴く音楽を聴かされたし、テレビも居間に一台だったので姉の見るトレンディドラマなるものも見させられた。姉が県外就職で家を出ると、私一人の部屋になった。私はラジオが好きで、伊集院光氏のラジオリスナーとなった。深夜ラジオはテープに録音して、何度も聞いた。就職すると、次第にラジオは聴かなくなり、部屋に入るのは寝る時ぐらいになった。
思えば、あの実家の狭い部屋でラジオを一人で聞いていたあの頃がいまだに楽しかった気がする。新しい音楽を聴けた時の感動は、今のように動画などで見つけた時とは、一味違った。
そう考えると、あの狭い部屋も悪くなかったよだろう。
ユメではなくウソでもない 俺はもう死にたかった
まだ二十代の頃、会社に派遣されて来ていた男性社員に一目惚れしてしまった事がある。とはいえ、直接話す機会も近付く事も出来なかった。一度だけ、一緒に仕事をした事があったがまともに顔も見れなかった。今思えば、何であんなに彼に恋焦がれたのか分からないが、彼は派遣期間を終えた。すっかり打ちひしがれていた時に、たまたま聴いたのが真心ブラザーズの「遠い夏」という曲だった。
ああ遠い夏よ 俺をあの日々に閉じこめろ
次の言葉が夢の最後の滴なのか
君がいないと俺の心はもうじき死ぬだろう 助けて
まさに自分の心情を唄っているようで、不覚にも泣いた。たった一ヶ月で恋して失恋して泣いた。こんな経験はこの時ただ一度だった。恋愛に興味もなく、異性にときめく、なんて経験の少ない私にとって、この経験はいまだに不思議でならない。
正直者は馬鹿を見る、と言われる。昔、芸人のケンドーコバヤシ氏が学生相手に全て嘘をついてトークをする、という企画で見事に嘘をついたトークをしてみせていた。内容は忘れてしまったが、最後には感動的な話をして、これも嘘だと言い、時には嘘をつく事も正しかったりする、として終えた。学生たちはむしろ感動した様子で拍手していた。コバヤシ氏の話術が素晴らしかったのだろうが、確かに嘘をつく事も正しかったりする。
祖母が胃がんで余命三ヶ月と言われ、我々家族は怖がりの祖母のためと告知しない事に決めた。しかしいよいよ症状が悪化していた頃、祖母がポツリと「もう、助からないんじゃないかな」と言った。この時、病室には私一人しか居なかった。だが、咄嗟に言葉が出なかった。
「……そうならないように、頑張りなよ」
今なら分かる。これは、下手な嘘だ。祖母は恐らく私のこの一言で、死期を悟ったと思う。
上手く嘘のつけない自分は、これからも後悔ばかりしていくのだろう。