そっと伝えたい


どうしよう…
ドキドキする…

突然のタイミングが今、私の目の前に。

もしこのままにしてしまったら、このあと後悔するかもしれない。

言うか言うまいかの悩みどころだ。

うーん、どうしよう。

出来るだけ、そっと伝えたい。

タイムリミットが着々と迫る。

嫌、逆に今しかないか…うん。

私は意を決した。


昇りのエスカレーターで一つ前の段に並ぶ女の子の肘辺りを、私は人差し指でつついた。

ちょっとビックリして振り返る女の子。

「お財布取られちゃいそう。」

彼女が背負うリュックのポケットを指差しながら、私はそう伝えた。

さっきからポケットのファスナーが全開で、可愛いピンクのお財布が丸見えなのだ。

「あ、すいません。ありがとうございます。」

満面の笑みの女の子。

その笑顔に、思わずこっちまで釣られて笑顔になった。

よかった。
今日はいい日になりそうだ。




お題
そっと伝えたい

未来の記憶


だんだんと呼吸が浅く、弱くなっていくのがわかる。

いくらか不快な時期があったにせよ、間もなくそれも終わるのだ。

瞼はもう重くて開けられない。

耳はほんの僅かに音らしきものを捉えることはできるけれど、今は何も聞こえてこない。

先ほどから短い夢を繰り返し見ている。

断片的だが、どれも私の人生の一部だったものたちだ。

ごちゃ混ぜになった登場人物は、みな私にとって縁の深い人達ばかりだな。

ポロリと左目から涙が零れる。

大満足とはいかないまでも、まずまずの人生だった。

今この瞬間、そう思えた。

温かな記憶だけ、未来の記憶として持っていくことにしよう。

みんな！
いつかまた逢う日まで、お元気で。





お題
未来の記憶

手のひらの宇宙


憧れだった仕事に就いた三十数年前。

あれから結婚、出産、育児が間に入り、職場もいくつか変わってきたけれど、やっぱり今の仕事が好きだと思える。

その純粋な思いが今も変わらずあることが素直に嬉しい。

人間関係に悩み、打ちのめされたこともあるにはあるが、そんなのは屁でもない。

私は目の前の好きな仕事をするだけなのだから。

どんなに嫌な奴からでも学べるものはある。

これも私にとって一つの教訓だ。

こうして私はこれからもどんどん自分をアップデートしていくのだ。

なんて偉そうなことを言ってみるが、所詮は手のひらの上のできごとなのだろう。

私は今日も、手のひらの宇宙で笑ったり泣いたり、踊らされているのだな。

うん、きっとそうだ。





お題
手のひらの宇宙

あなたのもとへ


好きな人がいる。

その事実だけで何となく幸せな気持ちになれる。

連絡頻度が多いとか少ないとか、どっちの方が気持ちが強いとか弱いとか、そんなしちめんどくさいことはとりあえず置いておくとして。

付き合うとか付き合わないとかも、もうこの際どうでもよくて。


この前会ったときは、しれっと恥ずかしいことを言っていたな、とか。

私を見つめる目がデレていたけど、あれはきっと無意識なんだろうな、とか。

毎回くれるお菓子の量が尋常じゃないな、とか。

そんな二人の間で起きた出来事だけが真実だと思っている。


その上で、場面場面を反芻して、時折ニヤニヤしたり、冷静を装って、分析してみたりして楽しんでいる。


男の人はいくつになっても、少年に戻ったり、お兄さんになったり、お父さんになったりと忙しい。

一方で、女はどうか？

私だったら、終始子どもになって甘やかされていたいと思う。


あと少しであなたに会える。

これからあなたのもとへと向かいます。




お題
あなたのもとへ

あたたかいね


子どもの頃から冷え性だった私は冬になると決まって足の小指にしもやけを作っていた。

今みたく可愛いモコモコの靴下や靴用ホッカイロなんてものはなかったし、せいぜい寝る時に電気アンカが使えるくらいのものだった。

でも、しもやけが出来てしまうほどの冷え切った足に、ぼんやりしたアンカの熱など何の役にも立ちはしない。

そんな時、私は父の布団に潜り込むことにしていた。

仕事から帰ってきた父は軽く晩酌をしたあと、夜九時半には布団に入って寝てしまう人だった。

小学生の私よりも早寝だったのだ。

テレビではジャイアンツとドリフターズが活躍していた昭和の頃の話だ。

私は父の布団をそおっと捲り、氷のように冷え切った自分の足を父のふくらはぎにペタッと当てる。

ひいっ！といつもの短い悲鳴のあと、父は怒りもせずに私の足を温め続けてくれた。


時代は変わり令和。

リビングでは犬が抱っこしてと甘えてくる。

私は抱き上げた犬の足の余りの冷たさに驚き、慌てて毛布で包んだ。

「あたたかいね。」

優しく背中を擦り、頭を撫で、顎先を入念に搔いてやる。

手を止めると同時にもっと撫でてと犬が鼻先を突き上げてくる。

私は再び犬の背中を撫で始める。


ぼんやりと父のことを考えながら過ごす穏やかな冬の午後。

私は犬の足に手をやってみた。

先ほどの冷たさはもうすっかり消えていた。




お題
あたたかいね