良いお年を
令和の今、自分が子どもの頃のお正月と比べると、だいぶ様変わりしてしまったと感じる。
スーパーは年末ギリギリまで開いているし、商業施設に至っては年始早々初売りのノボリが立つところさえある。
かつて保存食だったおせちも現代では味が濃過ぎるということで不人気らしい。
年賀状だって今ではすっかり廃れてしまった。
年明け早々に送り合うLINEで十分事足りてしまうからだ。
子どもも大人も一年中、いつでもどこでもスマホやゲームに夢中だし、お正月だってそれは変わらない。
実際、今の日本ではお正月らしさなど形ばかりのものになってしまった。
それでもこの一年、何とか無事に過ごせたことを感謝する気持ちは、時代が変わっても変わらない。
何かと大変な時代を共に生きる友として、仲間として、
みなさんどうぞ良いお年をお迎えください。
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良いお年を
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一年間を振り返る
手ぶくろ
道端には色々なものが落ちている。
何か光るものがあるなと思い目を凝らして見ると、自転車の鍵だったり、どういう訳でそうなったのか道の真ん中に大人用の長靴が落ちていたこともある。
ずいぶん前のことだが、自転車で路肩を走っていた時、不幸にも車に轢かれて絶命したと思しき小動物に遭遇したことがあった。
それ以来、少し手前からそれらしき大きさや色合いのものを発見した時は、その物体を直視しないようにしながらも無意識にハンドルを握り締めている自分がいる。
大抵の場合、どこからか風で飛ばされ放置されたままの色褪せたタオルだったりして、ホッと胸を撫で下ろすことになるのだが。
割と頻繁に見かけるのは小さな子ども用の靴やくつ下だ。
この時期は手ぶくろもその仲間に加わる。
ただこれらの落し物は他のものとは明らかに扱いが違うように思う。
靴の場合、踏みつけられ汚されたりしないようにとの気遣いなのか、誰かの手によってそっと道の端に置かれていることが多い。
くつ下や手ぶくろの類は、駐車場の金網の隙間に挟まれているのをよく目にする。
何となく拾った誰かの善意が想像出来るようで、発見した時は一瞬胸が温かくなる。
どうかどうか、小さくて可愛い持ち主の元へと無事に戻れますように。
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手ぶくろ
変わらないものはない
難しいことはわからないが、時々何か訳の分からない漠然とした不安のようなものに襲われることがある。
そんなときは、無神論者の私でさえ、ふと自然と仏教めいたものに触れたくなる。
触れたくなるというか、仏教は日本人である私のアイデンティティの意外と近い距離にあるのだと感じることがある。
それに触れることで、今目の前にある現実世界から少し逃避して、可もなく不可もなく、ただただ俯瞰した目で現状を見つめてみたくなるのだ。
言葉にすると仰々しく大層なことのようにも思えるが、たぶん私はごちゃごちゃと小難しいことでこんがらがった脳みそを休ませたいだけなのかもしれない。
仏教を利用及び活用して。
平家物語の書き出しで有名な諸行無常とは、すべてのものは変化し続けるものであり、永遠に同じ状態を保つことはない。
つまり、この世には変わらないものはないと説いている。
諸行無常に似た言葉で、諸法無我というものがある。
私はどちらかというとこの言葉の方が好きだ。
諸法無我とは、すべてのものは自分自身のものではなく、縁によって生じたものであり、実体がないということ。
つまり、私が私だと常日頃思っている自分自身ですら、いつ変わってしまってもおかしくはなく、またそういうものなのだというのだ。
もうここまでくると、常人である私には到底理解ができない。
でも何だか、「いいんだよ、お前のやりたいようにやれよ!」と背中を押されているような気分になるから不思議だ。
そっかそうだよな。
うんうん、そうするよ。
要は、自分の人生なのだからどう好きに生きたっていいのだと。
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変わらないものはない
クリスマスの過ごし方
「あー今年はボッチだわぁ」
クリスマス数日前のできごとである。
夫の部屋のドアを勢いよく開けながら不貞腐れ気味に言う娘。
何度夫に入室時にはノックをするようたしなめられても、一向に聞く耳を持たない。
強心臓なのだ。
夫も夫で、長男にはあれほど恐れられていたはずが、娘の前では静かなものだ。
パタンと音がして、どうやら部屋の中に入ったことがわかる。
私はリビングで一人、お習字のおけいこをしていた。
月のハネがどうしてもうまくいかない。
どうしたらお手本のようになるのか、数日前から試行錯誤を繰り返していた。
正座をした左足の腿のあたりがじんわりとあたたかい。
犬がくっついて寝ているのだ。
「ねぇねぇお母さん」
リビングに入って来るや、私の足から犬を引き剥がし抱き上げた娘は、ソファーにドンと背中を預けた。
犬は迷惑そうにあくびを繰り返している。
「本来のクリスマスの過ごし方は、家族みんなで祝うものだよってお父さんが言うの」
「そう、それで?」
私は一画目の入筆に集中した。
「だから、私言ってやったのよ。うちは家族みんなバラバラじゃないって」
そう言って娘はケラケラ笑った。
なかなかいい。
太すぎず細すぎず、左払いのカーブも毛先の纏まりも理想的だ。
私は二画目の角も成功させ、縦線に意識を集中した。
「ねぇ聞いてる?」
「聞いてるよ」
角の勢いのまま、太さを保ちながら少し線を反らせ気味に、一画目の長さを超えたあたりで筆先を纏め、左斜め四十五度の方向に徐々に力を抜いていく。
「お、うまい、成功じゃん!」
後ろから覗き込む娘に、私はそうね、まぁまぁいいねと答えてみせた。
子どもたちが小さい頃の我が家のクリスマスと言えば、それはもう盛大だった。
キラキラのツリーに子どもの人数分の大きなプレゼント。
ケーキは白いのが好きな子と黒いのが好きな子のために、大きなホールのを毎年二つ用意した。
定番のチキンにピザにジュース、お菓子もたくさんたくさん。
絵が得意な次男に家族みんなの似顔絵を書いてもらい、折り紙を細く切って作ったお手製の輪っかはみんなで手分けして壁に飾った。
サンタやトナカイの仮装をして、クラッカーを鳴らし、シャンメリーで乾杯してパーティーの始まりだ。
そこにはもちろん子どもたちの眩しい笑顔があった。
三番目のこの子は、残念ながらあの頃のキラキラしていた記憶があまりないらしい。
「お父さんをあんまりいじめないであげてよ」
私は書き上げた月を眺めながらそう言った。
「いじめてなんかないよ。私がいるからこの家はもってるんじゃない。二人には感謝して欲しいくらいよ」
だそうだ。
実際、そうなのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。
ただ、愛の形が変わっただけの気もするし、元からそんなものは無かった気もする。
月のハネのようには人生うまくいかないのだ。
そんなことを思ったクリスマスイブ前夜であった。
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クリスマスの過ごし方