NoName

Open App
1/22/2024, 8:05:49 AM


リスク社会としての現代                           大澤真幸



リスク社会とは

社会学にはどの視点から捉えても、「救済」や「希望」の可能性を見出すことがむずかしい社会システムを分析するための概念が、すでに準備されている。「リスク社会」なる概念が、それである。リスク社会とは、環境問題やテロのような社会的レベルから、家族崩壊や失業のような個人的レベルまでの、さまざまなリスクの可能性にとりつかれた社会である。

リスクとは何か? リスクは、とりたてて現代に現れたものではなく、伝統社会にもあふれていたのではないか? たとえば自然災害の脅威――それは伝統社会においてより大きかったはずである――は、リスクではないのか? そうではない。そのことを理解するためには、リスク(risk)と危険(danger)との相違を把握しておかなくてはならない。リスクは、選択・決定との相関でのみ現れる。リスクは、選択・決定に伴う不確実性(の認知)に関連しているのだ。リスクとは、何事かを選択したときに、それに伴って生じると認知された――不確実な――損害のことなのである。それゆえ、地震や旱魃のような天災、突然外から襲ってくる敵、(民衆にとっての)暴政などは、リスクではない。それらは、自らの選択の帰結とは認識されていないからである。とすれば、リスクが一般化するのは、少なくとも近代以降だということになる。社会秩序を律する規範やその環境が、人間の選択の産物であるとの自覚が確立した後でなければ、そもそも、リスクが現れようがないからである。

だから、リスクの一般化は、アンソニー・ギデンズが近代の本質的な特徴として挙げている「再帰性(reflexivity)」を必要条件としている。どのような行為も規範を前提にしている。ギデンズによれば、近代社会においては、その規範への反省的・再帰的な態度が浸透し、常態化している。すなわち、規範を「変えることができる/変えるべきである」との自覚を前提にして、規範が不断にモニタリングされ、修正や調整がほどこされるのが、近代社会である。リスクは、再帰的近代に至らなければ、ここかしこに見出されるような状態にはならない。実際、「リスク」という語は、近代社会になってから出現した語であり、その語源は、イタリア語の「risicare(リジカーレ)」らしい。このイタリア語は、「勇気をもって試みる」という意味であり、選択や決断ということとリスクとの繋がりが暗示されている。このように、リスクの一般化は、「近代であること」を必要条件としている。



リスクの二つの特徴

リスク社会のリスクに関して直ちに見出しうる特徴をはっきりさせておかなくてはならない。リスク社会のリスクには、二つの顕著な特徴がある。

第一に、予想され、危惧されているリスクは、しばしば、きわめて大きく、破壊的な結果をもたらす。たとえば、温室効果ガス(二酸化炭素等)の増大に代表される、自然生態系の破壊は、リスクの典型だが、その結果は、場合によっては、人類の、あるいは地球の生物全体の絶滅でさえありうる。あるいは、テロもまた、リスク社会のリスクだが、それがもたらす死傷者数や精神的なダメージがいかに大きなものであるかを、われわれはすでによく知っている。

第二に、このようなリスクが生じうる確率は、一般に、非常に低いか、あるいは計算不能である。たとえば、地球の温暖化によってある島が完全に水没してしまう確率を、きちんと算定することはほとんど不可能である。あるいは、東京やロンドンのような、先進国の大都市で無差別テロが起こりうることは分かっているが、その確率は、非常に低いと見積もらざるをえない。

つまり、リスクがもたらす損害は、計り知れないほどに大きいが、実際にそれが起こる確率は、きわめて小さい(と考えないわけにはいかない)。それゆえ、損害の予想(確率論でいうところの期待値)に関して、人は、互いに相殺しあうような分裂した感覚をもたざるをえない。

述べてきたように、リスク社会は、社会システムが、マクロなレベルでも、ミクロなレベルでも、人間の選択の所産であることが自覚されている段階に登場する。システムの再帰性の水準が上昇し、システムにとって与件と見なされるべき条件が極小化してきた段階の社会である。このとき、ときに皮肉な結果に立ち会うことになる。リスクの低減や除去をめざした決定や選択そのものが、リスクの原因となるのだ。たとえば、石油等の化石燃料の枯渇はリスクだが、それに対処しようとして原子力発電を導入した場合には、それが新たなリスクの源泉となる。あるいは、テロへの対抗策として導入された、徹底したセキュリティの確保は、それ自体、新たなリスクでもある。このように、リスクそれ自体が自己準拠的にもたらされるのである。



倫理の転換、民主主義の危機

リスク社会は、古代ギリシア以来の倫理の基本を否定してしまう。どういうことか? アリストテレスが述べたことは、美徳は中庸の内にある、ということだった。だが、リスク社会のリスクを回避するためには、中庸の選択は無意味である。中庸が最も価値が低く、選択は両極のいずれかでなくてはならない。たとえば、地球の温暖化を避けるべく、二酸化炭素の排出量を下げる――石油の使用を抑制する――べきかどうか、が問題だとしよう。近い将来――このまま石油を使用し続けた場合に――、地球がほんとうに温暖化するのかどうかは、誰にも分からない。このままでは地球が温暖化するのだとすれば、われわれは、二酸化炭素の排出量を大幅に下げなくてはならない。だが、逆に、温暖化はまったくの杞憂なのかもしれない。その場合には、われわれは今のまま、石油を使用し続けてもかまわない。確率論が示唆する選択肢は、両者の中間を採って、中途半端に石油の使用量を減らすことだが(被害の大きさと生起確率が互いに互いを相殺するような効果をもつので「期待値」が中間的な値をとるから)、それこそ最も愚かな選択肢である。もし温暖化するのだとすれば、その程度の制限では効果がないし、また温暖化しないのだとすれば、何のために石油の使用を我慢しているのか分からない。結果が分からなくても、結果に関して明白な確信をもつことができなくても、われわれは、両極のいずれかを選択しなくてはならないのである。

さらに、こうした態勢は、民主主義的な決定の基盤を切り崩すことになる。政治的な意志決定に、民主主義が採用されるのは、何が真理なのか、何が正義なのか、誰にも分からないからである。こうした状況で、民主主義は、次のような次善の策を採る。普遍的な真理や正義があるとすれば、それは、理性的な人間のすべてが合意するはずなのだから、多数派が支持する意見こそ、正義や真理に最も近似しているに違いない、と。つまり、民主的な決定は、多様に分散する諸意見の中から、多数派の見解が集中する平均・中間を真理や正義の代用品として用いるのだ。だが、述べてきたように、リスクへの対応においては、平均や中間は無意味である。半数前後の者が反対する極端な選択肢を採らなくてはならないのだ。



「知」と「倫理的・政治的決定」の断絶

リスク社会がもたらすもうひとつの効果は、「知」と「倫理的・政治的決定」との間の断絶があからさまなものになってしまう、ということである。学問的な認識と実践的な決定との間には、決して埋められることのない乖離がある。前者から後者への移行には、原理的に基礎づけられない飛躍がある。だが、しかし、近代社会は、両者の間に自然な移行や基礎づけの関係が成り立っているとの幻想によって、支えられてきた。たとえば、特定の経済政策は、経済学的な認識によって正当化されると考えてきた。あるいは、生死についての倫理的な決断は、医学的・生理学的な知によって支持されうると信じてきた。だが、リスク社会は、知と倫理的・政治的決定との間にある溝を、隠蔽しえないものとして露呈せざるをえない。なぜか?

科学に関して、長い間、当然のごとく自明視されてきたある想定が、リスク社会では成り立たないからだ。科学的な命題は、「真理」そのものではない。「真理の候補」、つまり仮説である。それゆえ、当然、科学者の間には、見解の相違やばらつきがある。だが、われわれは、十分な時間をかければ、すなわち知見の蓄積と科学者の間の十分な討論を経れば、見解の相違の幅は少しずつ小さくなり、ひとつの結論へと収束していく傾向があると信じてきた。収束していった見解が、いわゆる「通説」である。科学者共同体の見解が、このように通説へと収束していくとき、われわれは、――その通説自体が未だ真理ではないにせよ――真理へと漸近しているのではないかとの確信をもつことができる。そして、このときには、有力な真理候補である通説と、政治的・倫理的な判断との間に、自然な含意や推論の関係があると信ずることができたのである。だが、リスクに関しては、こうしたことが成り立たない。

というのも、リスクをめぐる科学的な見解は、「通説」へと収束していかない―いく傾向すら見せないからである。たとえば、地球がほんとうに温暖化するのか、どの程度の期間に何度くらい温暖化するのか、われわれは通説を知らない。あるいは、人間の生殖系列の遺伝子への操作が、大きな便益をもたらすのか、それとも「人間の終焉」にまで至る破局に連なるのか、いかなる科学的な予想も確定的ではない。学者たちの時間をかけた討論は、通説への収束の兆しを見せるどころか、まったく逆である。時間をかけて討論をすればするほど、見解はむしろ拡散していくのだ。リスクをめぐる科学的な知の蓄積は、見解の間の分散や懸隔を拡張していく傾向がある。このとき、人は、科学の展開が「真理」への接近を意味しているとの幻想を、もはや、もつことができない。さらに、当然のことながら、こうした状況で下される政治的あるいは倫理的な決断が、科学的な知による裏づけをもっているとの幻想ももつことができない。知から実践的な選択への移行は、あからさまな飛躍によってしか成し遂げられないのだ。