それに気付いたのは、会社が入っている高層ビルを出て、しばらく歩いた後だった。
オフィスを出る少し前に見たニュースで、木枯らし一号が吹いた事を報じていた。今年は例年より一週間ほど遅いらしい。しばらく寒気の影響で寒い日が続くが、来週辺りはまた暖かくなって小春日和になる日もあると言っていた。
強い風がビルの谷間を吹き抜けている。
オフィス街だから風が強いのはいつもの事だったが、今日はその風に冷気が混じっている。道行く人は肩を竦め、上着の襟を立てながら足早に駅へと向かっていた。
「あまり寒くないなと思っていたんだが」
びゅう、と一際強い風が吹いた。
男が僅かに首を傾ける。風のせいで声が聞こえなかったらしい。
「風が強いのにあまり寒くないなと思っていたんだが」と今度は少し大きな声で言うと、男は青緑の瞳を数度瞬かせて言葉の続きを待った。
駅に近付く。オレンジと白の灯りが目にも、心に温かい。周りの人の足が早くなるのに合わせて、二人の足も自然、早くなる。
「コーヒーでも飲もうか」
そうだな、と答えて人気のカフェスタンドに飛び込んだ。
男がミルクたっぷりのカフェオレを頼んだのに、気付かれぬよう小さく笑う。
「風が強いのにあまり寒くないなと思っていたんだが」
さっきと同じ言葉を言ってコーヒーを飲む。
あたたかい。コーヒーが通った喉も胸も、それから背中と、左側も。
「君がずっと隣にいたからだな」
よくよく考えれば、見上げるのは彼だけだった。
自分より背が高い男と並んで歩くのは滅多に無い。
身長も体格も大きな、でもどこか子供のようなところがある彼の、あたたかさは何処から来るのか。
カフェオレを飲む男の頬が、僅かに赤くなる。
――きっと体温も高いのだろう。
木枯らしに震える街を見ながらそんな事をふと思った。
END
「木枯らし」
「×××ちゃんはさぁ、花好きだろ?」
「あ、はい。薔薇、ひまわり、桜、スミレ、紫陽花、チューリップ……どれも綺麗で、色や形が様々で……心を和ませてくれたり、好奇心を掻き立ててくれたり……」
「じゃあさ、宝石は?」
「宝石、ですか? ……そうですね、あまり馴染みはありませんが、原石のままの物の形の面白さや美しさ、宝飾品として加工されたものの細工の精巧さなどは、見ていて飽きません」
「だよな、俺もああいうの見るの好き。アメジストとか綺麗だよな。あ、絵は?」
「はい?」
「絵。絵画」
「あ、はい。絵画も好きです。美術館で見る巨匠の絵も、街角で見かけるスケッチも素敵ですよね」
「うんうん。あのさ、そういうの見た時に綺麗だって思ったり面白いって思ったりかっこいいって思ったりするだろ?」
「……? はい」
「……アイツがやってるのもソレなわけ」
「……」
「相手の美点を見つけるのが得意なんだよアイツ。んで、臆面も無く言えちまう。まぁそれが誤解を生みやすいっちゃ生みやすいんだけどな」
「××××さん……」
「はっきり言って、下衆の勘ぐりなんだよ」
「……っ」
「アイツは全然下心とか、そんなので喋ってないのに女と喋ってたらナンパ? それ言ったらここにいる全員ナンパしてんじゃん」
「……」
「俺がここに来たのはさ」
「あの時アイツを貶めた奴等全員ぶちのめす為だよ」
あの時も、今も、これからも。
何があっても俺だけは最後までアイツの味方でいるって決めてるから。
◆◆◆
そう言った××××さんの表情を、私は今も忘れる事が出来ません。
私は余りに未熟で、心や、言葉や、眼差しの意味をまだ理解出来ていなかったのです。
そして、自分が発した言葉の鋭さも。
××××さんはきっと私を許すことは無いのでしょう。
ごめんなさい。
自分の愚かさを知ったのは、全て終わった後でした。
END
「美しい」
残酷で、矛盾に満ちてて、理不尽で。
無力さに打ちのめされたり、諦める方が楽になるかも、と思ったりしてしまうけれど。
ふと見上げた空が。
瓦礫の中に咲く花が。
何気なく交わした視線が。
――とても綺麗だったから。
懸命に前に進む足が。
人々を鼓舞する声が。
誰かを支える腕が。
――とても力強かったから。
残酷で、矛盾に満ちてて、理不尽で。
どうしようもない世界でも、この世界は生きるに値する、とあなた達が思わせてくれたのです。
前を向ける日ばかりじゃないけれど、立ち止まったり蹲ったり、怒りに任せて喚き散らしたりしてしまうけれど、生きていこうと思ったのでした。
END
「この世界は」
どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどしうてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして。
お腹いっぱいなのに食べちゃうんだよ私!!!
「食べなきゃ勿体ない」って考えちゃうんだろうな、多分……。
(滅茶苦茶どうでもいい話)
END
「どうして」
いやに真面目な顔をしてヤツはそう言った。
ヤツは覚えたての煙草を少しぎこちない仕草で吸いながら、手の中のライターを物珍しげに付けたり消したりしている。細い煙が私とヤツの間を生き物のように漂っているのを、私は目で追っている。
「バカバカしい……。私達は夢を見ないように出来てるんだろう」
そう言うとヤツは煙草を咥えたままで、おどけたように肩を竦めた。
「眠ってみる夢じゃないよ」
覚えたてだと言いながら、様になっているのがこの男らしい。
「たとえば……あの時は食べられなかった美味しいものを食べたい、とか」
「なんだそれは」
「出会った人達と良い関係を気付きたい、とか」
「……くだらない」
「今度こそ最後まであの方と共に歩きたい、とか」
「“それ”を同列に語るのか貴様は」
「同列というか……どれも諦めたら寂しいものだろう? 君は?」
「なに?」
「君はこの生で何をしたい? どんな夢を見てる?」
「……」
――殺したい。
――貴様を滅茶苦茶にしたい。
――その顔を歪ませて、惨めに泣き叫ぶ様を見たい。
細い煙が蛇のように私の顔に迫ってくる。
「夢は言葉にすると叶うらしいよ」
白い蛇が低い声で囁く。
「きっと誰も……咎めない」
蛇は消えては現れて、私を誘惑する。
「……煙草を吸いたい」
長い沈黙のあとようやくそう言うと、ヤツは一瞬目を丸くして、そしてふわりと柔らかく微笑む。
「残念、これが最後の一本だった」
短くなった煙草を唇から離してそう言うと、またふぅ、と細い煙を吐き出した。
「だから今日はこれで勘弁してくれ」
突然触れた感触は、何だったのか。
口の中に広がる苦い味の正体に気付くまで、私はしばらく動けなかった。
……この昏い夢も、口に出したら叶うのだろうか。
END
「夢を見てたい」