時計の針は止まっている
時間は進んでいる
「ずっとこのままでいいのに」と、父親は生まれたばかりの我が子に言う。
「ずっとこのままでいいのに」と、女の子は買ったばかりの洋服を着て言う。
「ずっとこのままでいいのに」と、少女は別の中学に行く友達に言う。
「ずっとこのままでいいのに」と、少年は夏休みのある日に言う。
「ずっとこのままでいいのに」と、彼女は学生最後の日に言う。
「ずっとこのままでいいのに」と、二人は肩を寄せ合って言う。
「ずっとこのままでいいのに」と、何度も何度も繰り返す。
ずっとこのままだったことなんかひとつもない。
幸せは明日には不幸に変わり、信じられないほど悲しいことが続く。
なにひとつままならない人生だったのに、
命が尽きるその時でさえ、あなたは懲りずにこう言うだろう。
「ずっと生きていられたらいいのに」と。
まさか元旦からこんなことになるとは思わなかった。震度7ってなんだ。津波ってなんだ。あまりの間の悪さに目眩がする。鬱アニメの脚本家だってもう少し回数重ねてから展開を変えるのに現実が容赦なさすぎる。被災地の皆様が少しでも安全に暖かく生活できるよう心から祈るばかりである。
良いお年を、という挨拶は年の瀬に頻出する。仕事納めの日、上司や同僚と「一年間お世話になりました」と頭を下げ合って「良いお年を」で退勤だ。そんな改まった場でなくても、寝る前に家族に言ったり、果てはSNSで新年5分前に言ったりとなかなかの濫用されっぷりだ。
インターネット集合知によると「良いお年」を、とは「良いお年をお迎えください」の略で、その意は「今年にやるべきことがすっきり終わって、憂いなく新年をお迎えできますように」とのことだ。するとやっぱり新年ギリギリに言うのは使い方が間違ってやしないか。少なくともSNSで新年5分前に言うのはどうなんだ。残り5分で払える憂いなんかたかが知れていると思うが、じゃあ「さよなら」「また来年」でいいかというと、それはそれでしっくりこない。
大晦日と正月は国中の人が同時に経験できる数少ないイベントだ。正月と並び称されたお盆は社会構造の変化とともに存在感が薄れてしまったが、正月はなくならない。新生児にも病人にも運転手にも美容師にも等しく新年は来る。そして同じ経験をする人間には不思議な共感が生まれる。有名なコピペ言うところの「なにか熱い一体感」である。この感覚は他人との距離をちょっとだけ縮めてくれる、というか、縮めてもいいかなという気にさせる。あなたと私は違う人間だけど、それでも私はあなたのことを思ってますよ、と。だから「良いお年を」がいい。その短さすら未練がましさがなくて美しい気がする。
「良いお年を」は一年の一番最後に贈る優しいお祈りなのかもしれない。例えそれが新年5分前に、顔も見たことのない不特定多数の誰かに向けたものだとしても。
藤岡康太がG1勝ってくれて嬉しかった