- 雪 -
幼少期の頃だった。
なんとはなしに雪に手を差し入れた。
すると指先がそっと絡みついてきたのだ。
僕は慌てて手を引いた。目の前に、こんもりと僕の背丈と同じくらいに積まれた真っ白な雪。まっさらだった表面にはつい今しがた僕の小さな指でくり抜かれた痕がある。四つの小さな穴の向こうを除いても、薄い藍色の空間が見えるばかりで。僕の手先に触れたあの指は、どこにも見当たらない。雪の中に人でも埋まっていたのかしら。僕は急激に怖くなってその日はそそくさと家に帰った。
翌日、今度は違う積雪の塊の前に陣取ってみた。恐る恐る指を差し入れる。するとまた、向こうから優しく指が伸びてきて、雪の中で僕の爪の根元をくすぐった。冷たかったけど、指先は柔らかくて、人としての体温がちゃんとあった。僕たちは冷たい雪の中で手を繋いだ。
それ以来、その手は僕の恋人となった。北国に住んでいて助かった。君と触れ合える日々が少しでも多くなってくれるから。
君は雪が積もっているところだと、いつでも、どこにでも現れた。1人で学校から帰る際、道路の壁際に積もっていた雪に手を突っ込んで、一緒に手を繋いで家に帰ったこともある。はっきりとした長い真一文字が雪に刻まれて、アスファルトが隙間から覗いて見えた。僕の左手は凍傷になって親に怒られたけど、春が来るまで毎日そうやって帰った。
中学生の頃は、校庭の雪に顔を突っ込んで、キスをせがんだこともある。手を繋いだことしかなかったから不安だったけど、その子はちゃんと唇を持ち合わせていたらしい。そっ、と。僕の悴んだ唇にキスをしてくれた。雪に包まれているとは思えないくらい、やわらかくて、暖かかった、小さなキス。この時僕は鼻の中に雪が入りそうになって苦しかったし、ぎゅっと目を瞑っていたからまつ毛は半分凍っていて、ちゃんとこの後目が開いてくれるか不安だった。それでも僕にとっては思い返すと顔が火照るくらい大切な思い出になった。
僕は変人扱いされていたけど、雪の向こうの君もきっと同じ扱いを受けていたんだろう。だから何も気に病まなかった。
雪の向こうの恋人。僕だけの。大切な。
- 君と一緒に -
君のそばで眠りたい
君の後をついて回りたい
君の小さな背中を包みたい
君にずっと纏わりつくけど
お風呂場ではちゃんと両目をつむるよ
君の隣を歩きたいけど
欲張らないで君の足元を這うよ
君の手を繋ぎたいけど
我慢して君の指の間に潜むよ
君の影になりたい
そうしたらずっと一緒にいられるから………
- 冬晴れ -
「あれは天使の爪なの」
ふとそう言われて、僕はちょっとぎょっとした。ぼんやりと、歩道橋の上で空を見上げていただけの僕。鼻につくくらい清潔で、肌が痛々しくつっぱるような空気の中。僕は油断していて。そんな中凛とした声が隣から聞こえてきたものだから、僕は少し意表をつかれたのだ。
隣の少女は長いまつげをふるふるっと揺らして、瞬きをする。彼女の視線と高らかに掲げた指先は、天空に注がれている。背筋が良い、少女。年は僕と同じくらい、かな。
「きっと天使の切った爪が、ここまで飛んできてしまったの」
彼女の指先を目で追う。そこにははっきりとした気持ちの良いブルーの空の中にうっすらと、白くて細い三日月が溶け込みそうに浮かんでいた。
剥がし損ねた白いシールの生き残り、のような。きっと指でなぞったら紙の繊維とほのかな粘着が感じられるような。そんな弱々しくて遠慮がちな、透明度の高い白色。天使のかけら。
僕はははあ、と。とりあえず曖昧で不確かな相槌をする。頼りないつながりの3文字に呼応するように、僕の口からは白い息がふんわりと吐き出された。
天使の爪が三日月なら、天使の吐息は何になるんだろう、僕は澄み渡る空気の中、薄ぼんやりとそんなことを考えた。
- 幸せとは -
誰かひとりを幸せにしても それが他人にとっての不幸せであったりするから むずかしい
幸せはいろいろな形をしているから すべての人を幸せにすることはできない 幸せが均一なかたちだったら よかった
それに気付かされないために 人間は 不揃いなものが美しく感じられるように作られている
- 日の出 -
水平線の向こう。きっとはるかはるか遠くの、その向こう。ぼてっと輝くインクを垂らしたかの如く、光が滲む。滲んで、空の赤い色とまぎれ合うみたいに、ゆっくりとあがっていく。海の表面からじんわりと、顔を覗かせる、小さな眩しい染み。そのまま海水と溶け合って、輝くインクで満たして欲しい。その時の海はどんな味がするんだろう。でも2人の間にはずっとずっと、遠い距離があるから、叶うことはない。夢。