鏡の中の自分は自分でしかない。
自分以外の何かと思うことは幻想ではないか。
自分の知らない、気づかないフリをした自分を見つけ出す。
そういった行為は、本来自分の中で理解、分かっていたことの再確認であり「見つけた」とは違うのではないか。
こんな正論をかましていても、自分自身が気付かないふりをしている自分がそこにいるかもしれない。
そう思って昨日のお風呂上がりは鏡の中の自分を見つめてみようと思う。
衣替えする度に
「え、去年って何着てこの季節超えてたん?」
ってなりませんか?私はなります。
なのに、なんやかんやで服を買わずにぬるりと乗り越える。
「去年の俺ダサすぎて草w」
と、草にwを生やすというタブーを犯してしまうくらいウケているのに、その服を着て季節を超える。
つい最近長袖関係と冬服を出てきたが、今年も同じようになるんだろうなぁ
「素人質問で恐縮ですが」そう言ってこちらを見る名も知らぬ教授の目は鋭い
なんで?素人がする目じゃないやろ?
そんな鋭い目するんやったら玄人やん、目が語ってんねん玄人である事を
でも、俺はそんな質問をしてくる人嫌いじゃないぜぇ?
逆境に「ココロオドル」
そう思い始めたのはつい最近のことである。
自分の中で何が変化したのか、最近考える。
思っていたのとは少し違った社会人、頼りない上司、残業の時間に対してあまり進まない業務。
だが「ココロオドル」
実は自分は変化はしていなくて、単に取り組む内容が自分の好きな事柄だからなのか。
好きな事じゃない、興味が無いことに対しても自分の中で好きなこと、興味がある事として変換しているのか。
自己分析は難しい。自分の都合のいいように捉えられてしまう。そこから離れて自分を客観視することは非常に困難である。
そんな事を考えながら帰路に就いている今、ココロオドル。
今日のお題を見て、まず「力」とは何かを考えた。
私に「力」という言葉は抽象的な言葉である。
普段私は力を込めてという言葉は他の表現によって代替していることが多いのかもしれない。
ただ、表現としての「力を込めて」というものは好きだ。
それぞれが異なる捉え方を出来るし、それについて話すことができる。
つい昨日始めたばかりの書く習慣だが、自分なりに深く考え「力を込めて」続けたいと思う。