私は20年間つまらない女でございました。育ちは東北で、東北とは言っても極端に田舎に入るような場所ではありません。家の近くの往来もそこまで少ないやうではなく、学校からの帰り道には近所の見慣れた顔ともよくすれ違います。挨拶を交わすことは遂にございませんでしたが、お互いきつと認識はしていたでしょう。小学・中学と受験など考えもなく、言われたやうに公立へ上がりました。高校は家からは少し離れていましたが、自転車で通えるやうな場所でした。つまるところ、田舎でも都会でもないところで私という人間は育ったのです。そのことについては今も不満はございません。
保険屋の母は常に忙しい人間でした。土日こそが稼ぎ時であったので、世間一般が休んでいても1人スーツを着て他人の家に足繁く通っていました。そのため母親と休日遊ぶといった経験は私には思い当たりません。(全くなかったというわけではないが、凡そなかったと言っても過言ではない)父の方は教鞭を執っていたので、休日は私を連れて食事処に連れて行ってくれたりしました。それも私が高校に入って休日は友人と会ふのが常になる前までですが。そして父は大学に入るのが最近の常であるということもずっと私に説いておりました。そのため私はなんの疑問も持ち合わせることなく、家から駅を数箇所挟んだ大学を受験し、入学して今があります。特に学びたいこともなく、今の生活は高校から同じの友人数人と共に教授に言われたことを淡々とするだけであります。
しかし私達は大人になったやうな気でいる子供だったのであります。ある日友人の1人に親しくする男ができました。異性といふのは大人になりきれていない子供を大変狂わせる要素を十分に持った者であります。その友人はある日を境に私達と行動することはなくなりました。他は「なんだってあんなに入れ込む程の男か」などと文句を垂れていましたが、私個人は己にもできれば心持がよくわかるやうになるだろうと分かっておりました。それでも私も他もきつとその友人が羨ましかったのでしょう。それでいなくなった友人の外でまたいつもの通り生活を続けておりました。
友人が1人内輪からいなくなって数月経った頃、私の元に1本電話が入りました。それは緊急を要してはおらず、また私の誠実も少し忘れさせたやうでした。私は愉悦と背徳感を持って、言われた通り駅前の少し高飛車な店に行きました。その男の言葉の裏にあるものに私は気付いていない振りをしていました。熱心に話を聞き、まるで「私は友人に誠実で、善い人なんだ」とその男や隣の席の見知らぬ夫婦に主張して回っているかのやうな顔でいました。しかし私があの電話を取った瞬間から、私が「うん」と返事をしたあの時から事は起こっていたのです。そして私も何が起きているのかはきちんと理解していました。その晩、私とその男は互いが共通で知るその人を裏切ったのです。それはとても卑劣でも、好奇心がそそられる出来事だったのです。大人なやうで子供な私は事が終わってからその始末の付け方に困りました。そこで私は事を終わらせることを止めにしたのです。私達は幾度となく逢瀬を重ねました。私達の間柄は他には説明できないやうでありながら、言葉にするのは至極簡単なものでした。しかし敢えて私はここでこの間柄を明確にする積りはありません。
男は女という生き物をわかっているというふうでした。しかし彼は私の事はわかっておりませんでした。次第に私の心の欲は強くなっていったのです。それは遊びでは終わらせてやらないぞといった、男へのある一種の嫌がらせでもありました。その心は男にはすぐ伝わったやうで、連絡の回数はみるみる少なくなりました。私は許せなかった。私の心は友人を裏切ったが、裏切られる事は許容できなかった。私の制御装置は男の「もう終わり哉。」という簡単な言葉で完全に壊れたのであります。私自身も制御を取り戻そうとすら思いませんでした。
愛というものは止まりません。ましてや他者の言葉一つで終わるほど軽いものではないのでございます。恋はある種の間違いでありますが、愛は本質から狂っていなくては生まれないのです。そして狂った者は戻らないのです。例に習うやうに私も戻りません。戻れません。
私の愛はその男をも完全に壊したのであります。
手に握ったものが生暖かい重みを感じて光ります。
しとしとと云って床は赤く濡れて光ります。
ぬめらぬめらと光ります。
--------------さて、珈琲でも飲もうかな。
『現実逃避』