暴力はときに、
自分を護るため、誰かを護るため、何かを護るため、
選ばなくてはならない手段の一つであると私は思う。
平和とは、暴力の不在を意味する。
暴力の存在するところに平和はない。
では、暴力の存在するところに愛は無いのか?
愛するものを護るため、
誰かを手にかけたり、闘いに参加したりすることに、
愛は微塵も無いと、そう言えるのだろうか。
愛は、実体の無いものであり、
それを表す態度や行いは、
いくらでも存在し、どんなものにでも変形しうるのだ。
そして、それは本人が思う限りは、
正真正銘、本物の愛なのである。
つまり、愛はときに暴力という形にもなりうるのである。
愛と平和は、安易に結びつけるものではないと私は思う。
そもそも多くの人がこの二つは共にあるべきだと、
そういう考えを持つに至ってしまったのは、
大多数の意見を元に、
愛を定義付けようとしてしまったからである。
愛とは、暴力に結びつくことのない平和なものなのだと。
全然違うのである。
“可変的”である『愛』と“不変的”である『平和』は。
︎︎◌ 愛と平和 ︎︎◌
時間は、流れ続け、止まってはくれないから、
油断していると、どんどん過ぎていくんだよ。
そして、
過ぎた日々には決して戻れない。
過ぎた日々は、思い出に、
思い出の世界に変わってしまう。
思い出の中には、今も確かにあるのに、
この世界にも確かに“存在していた”のに。
過ぎたら、もう二度とこの世界に、
同じ時、同じ日は、存在できない。
どれだけ待っても、やってこないんだよ。
噛み締めなくちゃ。
今を、明日も、明後日も、、、
◌ 過ぎ去った日々 ︎︎◌
お金って、
ほしいものを手に入れたりするために必要なものだよね。
それって、ほしいものとお金、どっちが大事なのかな。
それが、お金で手に入るものだとして、
ほしいものがなくちゃお金はいらないよね。
でも、お金がなくちゃほしいものは手に入らない。
難しいね。
だけど、大前提として、
お金では買えないものが、
無料で手に入ることがあるのを、忘れないでね。
ありきたりだけど、愛や友情みたいなもの。
ただ、これらは“無料”であって、“無償”ではない。
きっと、手に入れる過程で、傷ついたり、
手に入れてからも、時間なんかを費やすことになる。
それを知った上で、
お金より大事なものがあるのかを決めるのは、自分自身。
私は沢山あると思うのだけれど、
結局、価値基準は人それぞれだから、
これだ、って言い切れるものではないんだよね。
私が、愛や友情をそうだと思っても、
あなたや、あの人にとっては、
違うのかもしれないし。
◌ お金より大事なもの ︎︎◌
月は一つしかないから、
月が綺麗な夜は、みんな同じ月を見ているんだよね。
なんだか不思議な気持ちになるよね。
時間はズレても、地球の反対側にいる人たちだって、
同じ月を見るんだよね。
月は、何を見ているのかな。
地球にいるたくさんの生命が、
月にはみんな見えているのかな。
月は悲しくならないかな。
たくさんの人間が、
いがみ合って、争いあっているのが、見えること。
見たくなくなる日も、あるかのな。
それでも、みんな平等に照らしてあげなくちゃいけない。
月が綺麗な夜は、
せめて月が綺麗な夜くらいは、
醜い争いをやめて、憎み合いをやめて、空を見て。
大嫌いなあいつが見ているかもだけど、
大好きなあの人も、見ているかもしれないよ。
︎︎◌ 月夜 ︎︎◌
絆は、
自然に結ばるものではなく、結んでいくもの。
時間をかけて、お互いを知って、信頼を得て、
その糸は、少しづつ太く、丈夫になる。
そして、結び目は固く、少しのことではほどけなくなる。
でも、油断しないで。
どんなに固い結び目でも、
絶対にほどけない保証なんて、どこにもないんだから。
結ぶのが、自分と相手なら、
ほどくのも、ほどけるきっかけを作るのも、
きっと自分か相手。
大切なら、ほどきたくないなら、
自分たちでほどけないようにしなくちゃいけないんだよ。
︎︎◌ 絆 ︎︎◌