「ねぇ、私を殺してくれない?」
艶やかな黒髪に青空を反射させたような透明さを含ませた彼女は、俺にそう告げた。
彼女は確か、先日行われた入学式で生徒会長として挨拶をしていた少女だ。
名前は知らない。
興味のないものを覚えるのは苦手なのだ。
「...えっと、俺に言ってます?」
関わりなんてひとつもない人間に、突然「殺して」と言われたら、"普通の人間"ならこう返すだろう。
そんな"普通"を嘲笑うかのように目を細めた少女は、つかつかと細い脚を動かして、俺にぐいと近づいた。
近すぎる距離に、思わず体を仰け反らせる。
「もちろん、君に言ったんだよ。」
客観的に見て、彼女は愛らしい笑顔を見せた。
そんな彼女に、俺ははぁと気の抜けた返事しか返せない。
「暗殺者の君への、正式な依頼だ。」
その一言で、俺の手は少女の細い首を掴んだ。
殺さない、殺してはいけない。
必死に殺意を押し殺して、俺はぶるぶると自身の握力を緩める。
無意識に力が篭もってしまう自身の右手は、今にも彼女の頼りない首の骨を折ってやろうとばかりに血管が浮き出ていた。
「な、なんの話ですか。」
俺の行動と言葉のギャップに、彼女は何が面白いのか、この危機的状況の中、あははと声を出して笑う。
「ここまでしといて、しらばっくれるのは無理があるよ。」
そうして、自身の生を握られたまま、彼女はこちらに頬を赤らめ微笑んだ。
「君に、私を殺して欲しいんだ。」
その言葉に、俺の右手はさらに彼女の首をへし折ろうとする。
しかし、俺は燃えカスのような理性でそれをとめた。
「あぁ、ただ、死に方の希望があるんだ。今はまだ殺さないでくれ。」
彼女のその一言で、俺の右手はやっと戻ってきた。
先程まではまるで、右手だけが自分のモノではなくなったようだったのである。
いつものことだが、この悪癖はなんとか治しておきたい。
大きく息をつき、彼女をじっと見る。
「あんた、俺のことをどこまで知ってるんだ。」
「...僕の願いはただ1つ。」
彼女は、俺の言葉なんて聞こえないふうに屋上のフェンスへと近づいていく。
彼女の一人称が変わったと同時に、まとう雰囲気も、何もかもが変わった。
思わずはっと小さく乱れた呼吸になってしまう。
まるで、ここだけ違う世界になったみたいだ。
彼女はこちらにくるりと振り返ると、大きく手を広げ、無邪気に笑った。
「僕が人生で1番幸せだと思えた時に、このクソみたいな現実から突き落として欲しい。」
そう、例えばこの屋上のような高いところから。
さらに言えば、もっと高い、もう少し、ほんの少し生きていたかったと後悔したまま落ちることの出来る高さから。
彼女の笑顔はまるで、死への恐怖を感じさせない、ありを手で潰すような、蝶の羽をちぎるような、そんな子供だからこその残酷さを体現したものだった。
「それで、報酬は?」
そんな子供を叱りもせずに、ただ淡々と見返りを求めることは、まだ成人していないからという理由で許されるものなのだろうか。
彼女は、無邪気さを残したまま、さらに楽しそうにこちらを見る。
「報酬は、君が一番叶えたい願いを叶えること。」
私なら、叶えられるよ。
その言葉に、自身の胸が高鳴るのを感じた。
願い。
願いなんて誰にも言ったことがない。
家族と呼べる人達にも、友達として振舞っている人達にも、誰にも。
それを、彼女はまるて知っているかのように言ってみせた。
彼女は、心が読めるとかそういうことなのだろうか。
「あんたは、俺の心でも読めるのか?誰にも言ったことがないことを、あんたが分かるわけないだろう。」
「分かるよ。」
間髪入れずに返された答えに、次の言葉が紡げなくなる。
「分かるよ。」
彼女はそんな俺を見つめて、聞き分けのない子供を言いかせるように、再度告げた。
まるで、それが当たり前かのように言った彼女は、もう一度俺の前まで来て、頭一つ分下からこちらを見つめた。
「私なら、君に恋を教えてあげられるよ。」
俺は目を輝かせた。
こい、故意、濃い、鯉、恋。
俺は、生まれてこの方恋をしたことがなかった。
暗殺者として育てられ、血の繋がりもない同業者と家族を演じて、どのように見られるかを計算しつくした態度で友達を作り、普通の人間として生きるように努力した。
だが、そんな努力が必要な時点で、本当の自分をさらけ出せない時点で、俺が恋なんてできる訳もなく。
"仕事"に必要ならば、必要な演技で、必要な相手に、必要な分の恋心を作ることは出来る。
しかし、恋に盲目と言えるほどになることなど、演じることはできない。
人間というのは、想像だけではそれを再現出来ないものなのだ。
結局、作った恋心というのも、自身の想像でしかないから、それに溺れるなんてことはできない。
恋に踊らされて、正しい道を逸れた人間は多い。
しかし、自身にとっての正しい道、というのを踏み外させるような恋に、俺はとてつもない憧れがあった。
恋というものは、思慮深い人すら盲目にしてしまうらしい。
恋というものは、脚を失った人すらも踊らせてしまうらしい。
恋というものは、恋というのは、恋というのは!
恋というものならば、暗殺者である俺すらも溺れさせてくれるらしい!
「僕が、君を恋で溺れさせてあげる。」
故意に溺れさせられると分かった上で、恋というのは溺れられるものなのだろうか。
『君と僕』
『終わらせないで』
愛情とはなんだろう。
頬のズキズキとした熱さとそれを凍らせてしまうかのような冷たい風を感じながら考える。
誰かが、愛とは自己犠牲だと言った。
誰かが、愛とは見返りを求めないことだと言った。
私は、父のために体を売った。
私は、母のために拳を頬に受けた。
だけど、私は2人に何も求めなかった。
つまり、私は両親を愛しているということだろうか。
チラリと氷のような檻の外へと視線を向けて、下を眺める。
暖かな光に照らされた街は、愛が溢れていた。
小さな子供がはしゃぎ走って、母親がそれを微笑みながらも注意し、父親はそんな二人を眺めている。
子供がふいに、車道に出た。
大きな音とともに、眩い光が子供の目の前にせまる。
その刹那、父親が子供を抱えて暖かな光の元へと転げる。
子供は大泣きし、父親はそれを宥め、母親は泣きながらも二人に駆け寄った。
あの父親は、子供のために身をていした。
あの母親は、子供のために涙を流した。
だけど彼らは、子供に何も求めてないのだろう。
正真正銘、彼らは子供を愛していた。
大きな声で泣くことができるあの子は、愛されていることを知っているから、きっと両親を迷いもなく愛していくのだ。
不意に頬にぬるいものが伝う。
父は、私に男を教えてくれた。
母は、私を信じて首を絞めてくれた。
誰かが、愛とは与えることであると言った。
誰かが、愛とは信頼であると言った。
頬のそれをそのままに、檻に手をかける。
唯一残っていた温もりが手から離れていく。
見下ろす先には様々な愛の形。
嫌がる私を押し倒して花を握りつぶした父も、涙も出ない私に死にやしないと笑いながら手をかけた母も。
私を愛していたとでもいうのだろうか。
これも愛の形のひとつとでもいうのだろうか。
父が私の手首を抑えた時のように、母が私の首を絞めた時のように、檻を握る手に力を込め、足を地面から離す。
両親の愛が詰まりに詰まった体が思ったよりも簡単に持ち上がる。
両親が育てた私の細い腕は、ぷるぷると震えていた。
両親の愛を見つめ続けた瞳をゆっくりと瞼の裏へと隠す。
思い浮かぶのは二人の会話。
『あんなやつ、いなくなればいいのに。』
もう一度、ゆっくりと瞼を開く。
愛とは、自己犠牲である。
愛とは、見返りを求めないことである。
愛とは、与えることである。
愛とは、信頼である。
私は、二人のために自分を犠牲にして、それでも何も求めずに、ただ、 "私という存在の消失"を与え、これで彼らが喜ぶと信じている。
久々に頬を流れたぬるいそれは、もう乾いてしまっていた。
愛情で重くなった体が、暖かな光へと吸い寄せられる。
あぁ、幸せだった。
私は愛されていたのだから。
『愛情』
『どうすればいいの?』
あの入道雲はいつ消えてしまうのだろう。
そんな感覚で雲を見るようになったのは、最近のこと。
朝会話する母親。
散歩道で出会うおじいさん。
そして、見上げた空にあった入道雲。
全部全部、いつかはいなくなってしまうのだと思い、心がきゅうと泣く。
小さい頃から分かっていたはずだった。
昨日までお話していたひぃじいちゃんのお葬式に参加したこともあるし、仲良くしていた友達の名前を新聞で見かけたこともあった。
幼稚園児の癖に、大人ぶって読んでいた新聞で「また遊ぼう」と約束をして手を振りあった友達の名前を見つけてしまった時。
たくさんの鶴を折って、その子の写真の前に置いた時。
その頃は、「死んでしまう」ということが分からなかったから、涙も出なかったけれど。
小学生になってから、可愛がっていたハムスターが冷たくなって動かなくなったのを見て、初めて「死ぬ」ということを理解した。
理解してしまった。
「死ぬ」のは悲しいことなんだと。
それからほんの少しだけ「死」が怖くなった。
でも、その時の私は「自分もいつか死んでしまうんだ」と受け入れることができた。
「死」を実感したことなどなかったから。
途中
『入道雲』