「すれ違い」
私はみんなと同じことができなくてどうしたら良いか分からなくて部活の雰囲気を壊したことがある。
同輩に謝るしかないと思って謝ったけれど同輩は謝ることをしてほしかったわけではなかった。
わかり合いたかっただけ、話し合いたかっただけ。
きちんと対等になろうとしてくれたのに私は応えられなかった。
これが私のすれ違い
「忘れたくても忘れられない」
私には忘れたくても忘れられない日がある。
2021年3月25日
人生で初めてのバイト面接を経験し、自分を否定された日だ。
社会の壁にぶち当たった。
私には吃音がある。すごく軽くて名前を言う時以外にはほとんど問題ない、と自分では思っていた。
でも残念なことにそれを簡単に壊す人がそこにはいたのだ。
その日の夜泣きながら大好きなバンドの新曲を聴いた。
この日はバンドのデビュー30周年記念の日でもあった。
その曲とは「紫の夜を越えて」
紫は青信号を進めず、でも赤信号の前で立ち止まれない私にぴったりな色だ。
絶望感でいっぱいの夜を良い記念日にしてくれたスピッツには感謝しかない。
「たそがれ」
たそがれは黄昏と書くらしい。
エリザベートの楽曲でしか見たことのない言葉で持病もなく、周りも健康に恵まれた20の私には縁なく感じる。
いつだってたそがれを迎える人はいるのにね。
よく「たそがれている人」なんて表現も聞くけれどそれは俗らしい。日本語って難しいな
テーマ:別れ際に
別れ際に「またね」と言える存在。それは当たり前のようで当たり前じゃない。「またね」と言えるのはこれからも会えるだろうと思っていてなおかつ信頼している人だけだからだ。もちろんそう思ってなくても口にすることはできるだろうけど社交辞令や慣習に従うのは大嫌いだし、臆病なので信頼していない相手に言うことはできない。
またねって言うだけで幸せな気持ちになるのは相手と言葉をかわせるという安心感から。
「またね」は定型文だけどとても大事な言葉で別れ際に大事な関係を作り出してくれる。
私の日記帳
それは相棒に近いと思う。
名前まで付けて、友達の代わりに使って「話しかけていた」。
今は就活の振り返りをするためのものになっているけど不安を減らす精神安定剤でもあるなぁと日々思う。
昔の私はすごく過激だったけど今は違う。
多分大丈夫。