「ないものねだり」
昔から年の離れた姉が大好きで、シスコンと言われている。どんな時でも一緒に、何があってもそこまで大きな喧嘩にはならなかった。
私は姉に憧れを抱いていた。どんなことも器用にやりこなし、上手く調節できる姉が、すごくかっこよく見えた。
姉はなんでも上手くいく人間だった。友達ともいい感じに仲良くし、ストレスは溜めずに、好きなことを上手く活用して。受験にも淡々と合格していい学校生活を送っていた。
対して私は、不器用で、苦手なことが多い人間だ。友達と仲良くするにも考えすぎたり、ストレスを溜め込みやすく、よく体調を崩すことがある。受験も、死ぬ気で頑張っても落ちた。
そんな自分が、嫌で。どうして姉はできるのだろう。
姉みたいになりたいのに、なれない。
自分がなりたいと思う理想像は、気づけばもはや姉そのものだった。
だけど姉はある時私にこう言ってきた。
「簡単に努力出来ていいな、器用すぎて私はできない」
皮肉なのか?それとも尊敬なのか?
分からないけど、これが ないものねだり というやつか。
「好きじゃないのに」
私は矛盾してると思う。
自分が心から嫌いで、内面も、外面も。全部汚く、
嫌で嫌でしょうがなく見えてしまう。
私は私のことが好きじゃない。なのに、
死のうとは思えない。存在価値は何も感じないのに、
そう思ってるのに絶対に死のうとは思わない。
本当に矛盾している。
何故だろうか。鏡を見て自分の顔を嫌いだと思ったり、自分で考える全てを否定的に思うのに。
それは多分、心のどこかで「好きじゃない」ではなくて、「好きになりたい」と思ってるのかもしれない。
自分のことが散々嫌いだと思うくせに。笑えてくる。
認めたくない、けれど、大切にしたい。
あぁ、本当に矛盾している。
でもそんな自分を、もう少し知りたい。
好きじゃないんだけど、ね。笑
これは読んだ人と私だけの秘密ね。
「ところにより雨」
雨が好き。小学生の時に友達に打ち明けたこの言葉は、ドン引きという結果で終わった。
「今日雨だね〜、はあ、憂鬱だなあ。。」
私の友達の愛叶はそう言った。
「私は好きだけどな。雨」
純粋で素直な私から出た言葉はそれだった。
すると愛叶は、ええ!?本気?何がいいの??
とドン引きしてきた。
あぁ、雨が好きなのはダメなことなのか。
おかしい事なのか。
私は変なのか。
そう思った。
今でもまだ心に残っていて覚えているということは、
きっとそれほど傷ついたことだったんだろう。
涙が出るだとか、ひとりで悲しむだとか、そういうひと時の"痛み"ではなく、ずしんと苦い味が残り続けるような
長い長い"痛み"なんだ。
天気というものは分からない。
いくら予報が出来たって、完全に分かるものではないんだ。そこが面白い。そんな中で降る雨。
皆雨の良さが分からないというが、よく観察してみれば分かることが沢山ある。
雨の1粒1粒が滴る音が美しい。パラパラという音だったり、バーッと一気に落ちてくる音だったり、サラサラととても優しい音だったり。
どれも違う。一日たりとも同じ音なんてない。
それに雨が降ると、地面が濡れる。
当たり前だけど、晴れていたら乾燥している草木や花にも、雨の日には命の源となる水が当たる。
それがどれだけ自然にとって嬉しいことなのだろうか。
これは私たちには直接的ではないけれど、植物にとってはご飯の時間で、幸せな時だと思う。
誰かが幸せだと自分も幸せになるのと同じように、自然が幸せだったら私も幸せになれる。
まあ、これは私だけかもしれないけれど。
雨は悪い所だけじゃないよ。
私たちにとっては、傘をささないといけないし。頭は痛くなるし!なんだか憂鬱になるし。
嫌なとこばっかり見えやすいけど、でも違うから。
まあ、これは自論だし、別に誰かに押し付けたい訳じゃない。
けどほんとに。いい所あるよ。
どうしてこんなに必死に思ってしまうんだろうと考えたことがある。
きっと雨と私は似ているのかもしれない。嫌なとこばっかで、良さがないように自分でも思う。
でも、よく見て。私を、しっかりと見て。
もしかしたらあるかもしれない、私にも、
良さというものが。
多くの人には刺さらないけど、たった、1人でいい。
誰か1人が、私の良さを見つけて好きだと、言って欲しい。思って欲しい。
こう思うのが、雨の日の私。
伝わりずらく拙い文章だけど、思うことを全部綴りました。