僕は、何か重要なことを忘れている気がして、けれど何も思い出せなくて、ただぼんやりと、家の縁側から庭を眺めていた。
庭はすっかり冬景色で、雪こそ無いが、枯れて地面に降り積もった木の葉が地面を覆っていた。気紛れに足を伸ばして踏んでみれば、がさりと乾ききった葉が砕ける音を立てて、心に微妙な爽快感が残る。楽しくて、ついざくざくと年甲斐もなく庭を歩き回ってしまった。
ひとしきりはしゃいでから、また縁側に座って一息つく。まだ会社から帰ってきてそのままの、スーツのスラックスの裾。そこに、細かく砕けた枯葉の屑がびっしりと付いてしまっていた。枯れた葉の、赤茶色に染まった裾を見て、忘れていた何かの断片に触れたような、そんな気がした。僕は、この光景を知っているような、そんな予感だ。けれど、詳しいことは依然として思い出せないままだ。
ひらり、ひらりと、その葉を落とし損ねた木々が、時折思い出したように葉を振るい落とす。はらはらと落ちていく葉が、僕の忘れている、何かに似ているような気が、また脳裏をよぎった。
鮮やかな赤や黄色だった葉は、やがて色褪せて、全てがくすんだような茶色へと変わっていた。瑞々しかったその身から水分を失い、カラカラに乾いて砕けてしまう葉が、なんだか愛おしかった。
いつまでも思い出せない記憶が段々気になってきて、少しだけ、思い出そうと意識を向けた。あの、砕けてスーツの裾に纏わりつく葉に似たような、乾いて色を失うもの。それが、落ち葉の海のように満ちていた場所。それを、僕は確かに知っている。
ずき、と頭が痛んだ。不意に、鮮烈な赤が網膜を焼く。干からびる前の木の葉のような、命の赤色。それが、木の葉のように、僕の視界の片隅で、はらりはらりと散っていく。
もう一度、スーツの裾に目を落とした。スラックスの足の先は、こびり付いた液体で引き攣れて固まって、赤茶色の染みがべっとりと残っていた。
ああ、そうだ。殺したんだ。ふと、思い出した。全てが嫌になって、会社の上司を殺害した。確かに、この手で。
庭に積もった枯葉を見ながら、僕はまたぼんやりと、落ち葉のように振りしきるあの生命の赤色を、焼きついた網膜から脳へ、今度こそ忘れないように温めていた。
テーマ:枯葉
時刻は午後11時56分。まもなく、日付が変わる。そう、変わるはずなのだ。
俺はもう、この日を、同じ日付のカレンダーを、もう随分と長いこと見ていた。あり得ない話だと思うかもしれない。俺だって最初は、夢か何かだと思った。しかし、実際俺は今日という日に囚われていて、もう明日の日付を拝むことはないのだ。
しかし、今日に閉じ込められたからといって、案外なんの変化もなかった。俺がほんの少し行動を変えれば、その分出来事も変わっていく。不変なのは今日の予定や日程だけで、その中身は全く別のものになっている。だから、俺は別に、何も困ってはいなかった。日々に飽き飽きすることも、不変に気が狂うこともない。普通の人間が過ごしているような時間と、何ら変わりない日々を送っていた。
時計の針が進む。もうあと数秒で、本来なら日付が更新される。しかし、俺の世界は相変わらず、同じ日付をなぞるばかりだ。時計の針が天辺に回れば、日付が変わることはないまま時間だけがまたゼロからやり直しになるだけ。正直、カレンダーはもう無くてもいいものになっていた。
けれど、最近おかしなことが起こるのだ。きっと夢のせいなのだが、やけに眠りが浅い。何か、意識が別のものに吸われているような、そんな感覚を覚えるのだ。この世界は変わらないのに、俺の何かは変わっている。そんな不快な感覚が俺を蝕んでいた。寝て起きたら、体の節々が痛むことも少なくなくなった。ズキズキと、怪我でもしたように痛むのだ。
直感だった。根拠は何一つもない。なんとなく、終わりなのだと理解した。この、毎日繰り返していた日付が変わる。変わってしまう。知ってしまう。あの日の記憶を、思い出してしまう。
目が、覚めた。
起き上がったのは、色を失って冷たい光だけを反射する、真っ白な部屋。日付は、俺の知っているものからもう何ヶ月も経っていた。
俺はあの日、事故に遭った。俺以外に車に乗っていた友人達は即死だったそうだ。大学を卒業した、記念の旅行だった。
覚めてしまった夢は、もう二度と戻ってこない。俺は失ったあの日のことも、あれだけ繰り返した夢の中の日付も、目を開いた瞬間から、少しずつ少しずつ、霞むようにして分からなくなっていた。
テーマ:今日にさよなら
「お前、いつもそれだよな。」
ふと隣に座る幼馴染にそう言われ、俺は半開きのまま唇を止めることになった。
「あ?」
「いや、だからさ。お前いつもそれしか食べないじゃん。」
大学の学食の内容は、大体どこも似通っている。カレー、ラーメン、カツ丼あたりが、大抵どこも人気ランキング上位を掻っ攫っているだろう。そんな、良く言えば人気のものばかりの、悪く言えばありきたりなメニューの中で、確かに俺は同じものばかり頼んでいたかもしれない。
「あー……まぁ?」
「お前以外にそれ食べてる奴見たことないんだけど。美味いの?それ。」
そう言われて、手元の丼を見下ろす。茶色一色のそれは、同じ色味のカレーよりずっと貧相に見えて、人気度で争ったって勝負にもならないだろう。言われてみれば、俺も家でカレーか、手元のこれかを選ぶならカレーにする。
「そもそもそれ何?」
「……もずく丼。」
シンプルすぎるネーミング。元々は、小学校だか中学校だかの給食メニューらしい。給食になるくらいだから、たぶん栄養バランス的にもある程度整っているのだろう。
「渋……で、なんでそればっか食べてんの?」
何故か。理由を聞かれても、なんとなくとしか言いようがない。醤油やみりんで程よく煮詰められたもずくは、プチプチとした食感はそのままに海藻の匂いが消え、食べやすく、格段に美味いものに変わっている。が、毎日食べるほどかと言われれば、そうでもない気がしてきた。それでも、俺は毎日食べている。
「……なんとなく。」
結局、そのまま直球に伝えた。彼は釈然としなさそうな顔をしていたが、お気に入りなんてそんなものだろう。どうしてそれがそんなに気に入っていて、固執するのか問われたって、そうそう答えられる者などいないのだ。
「……つーか、お前も人のこと言えねぇだろ。」
「え?」
彼の手元に目をやる。そこには、赤というよりは黄金色に近い麻婆豆腐の乗った丼があった。
「俺もお前しか見たことないぞ。その激甘麻婆豆腐丼食べてる奴。」
「そうかなぁ……」
辛味の微塵も感じられない麻婆豆腐は、果たして麻婆豆腐を名乗っていいのか。これも元は学校給食らしい。うちの大学は、学校給食が好きなのか。
曖昧な会話はふにゃふにゃの線のようにダラダラと続く。なんだかんだ言って、一番のお気に入りは、もずく丼でも、辛味のない麻婆豆腐でもなくて、どうでもいい話をずっとしていられるこの時間なのかもしれないな、なんて思いもしたが、絶対、目の前の彼には言ってやらないことにした。
テーマ:お気に入り
女の子になりたかった。俺の好きな服を着ても、好きなものの話をしても、笑われない女の子に。
一般的に、俺は男である。自認も男だ。自分が女子だと思ったことは無いし、今後もきっと思わない。ただ、戦隊ごっこよりもおままごとが、スタイリッシュで男らしい服よりも、フリルのたっぷり付いた、ふわふわで可愛らしい服の方が好きだっただけだ。だから、厳密には女子になりたいんじゃない。好きなものを言っても、おかしいと思われないような容姿が欲しかった。
小さい頃から、親に言われるがままバスケをしていた俺は、身長も高く、骨張って筋肉の付いた体つきをしている。肩幅の広い、硬い体は、俺の憧れるような、可愛らしい服は入らなかった。
一度だけ、中学の文化祭の出し物で、誰が言い出したのか男女逆転メイド喫茶をすることになった。周囲の男子たちは、面白がって笑うか、心底嫌そうな顔をしていたが、俺は内心、大好きなフリルやレースで飾られたメイド服を着られることに歓喜していた。
でも、現実は俺の思う通りには行ってくれなかった。男子が羨み、女子が目を輝かせる高身長と鍛えられた体つきのせいで、俺だけサイズがなかった。結局は俺だけ燕尾服を着ることになり、この体が憎くて仕方なかった。
男子達の羨む声と、女子の黄色い声を聞き流しながら、ぼんやり教室を見回していた、その時だった。
教室の隅、ぽつんと座り込む、メイド服のよく似合う男子がいた。彼は女子から密かに、よく似合うと騒がれていたが、それを耳にする度に悔しそうにしていた。
気が付いたら、声をかけていた。彼は俺よりずっと背が低く、華奢で、小柄だった。俺の憧れた、可愛らしい服のよく似合う顔立ち。俺は、彼が羨ましくて仕方なかった。
彼と数言言葉を交わして、勘付いた。彼も、俺を羨んでいる。きっと、俺とは正反対の理由で。
正反対で、けれどよく似た俺達はすぐに打ち解けた。そのうちに互いの羨望をぶちまけ、ぶつかって、最後にはまた笑い合った。その日から、俺はバスケを辞めた。彼も、親に言われて続けていたピアノを辞めたらしい。
翌年。俺達は、お互いの前で、お互いの着たかった服を着て会ってみた。周囲の目は当然気になったし、何度も泣きそうになった。途中で帰ろうかとさえ思った。けれど、どうにか堪えて会った彼は、相変わらず小柄で、華奢で、けれど確かに格好良く見えた。
その日、確かに俺達は、誰より可愛く、格好良くいられたに違いない。
テーマ:誰よりも
ある日。ポストに変わった手紙が入っていた。
ついこの間、私は長年小説を書き続けた甲斐あって、華々しいヒット作を生み出した。出版社から送られてくるファンレターの数も倍になり、毎日読み切るのが大変なくらいだ。それでも、この時代にわざわざ紙でファンレターを送ってくれるファンは少ない。だから、私は紙のファンレターに対しては、必ず直筆で返事を書くようにしていた。
そんなファンレターに混じって、一つだけ、妙なものがあったのだ。宛名は私で間違いない。けれど、送り主の名を見ると、「十年後の君より」と認めてある。私好みのさらりとした手触りのいい紙に、趣味のいい、深い青色のような、紫のような色をしたインクの、恐らく万年筆で、その手紙は綴られていた。
内容は時候の挨拶から始まって、最近出版した、ヒットはしなかった作品の感想が書き連ねられている。ヒットはしなかったものの、自分の中ではヒットした作品よりずっと美しく描けた作品だった。中身は案外普通の、よくあるファンレターで、私は少し拍子抜けした。誰だって、「十年後の私」なんて言われたら、もしや自分は未来で死んでしまうのではないか、あるいは、大切な人を喪うことになるのではないかと嫌な方向に妄想が膨らんでしまうだろう。
読み終わった手紙を閉じようとしたところで、ふと違和感に気が付いた。その手紙は、かなり誤字が多かった。私だって、多少の誤字をすることはある。しかし、ここまでではない。それに、こんな上質なレターセットを揃えて、恐らくペンに付属のものでないインクをわざわざ使って、万年筆で手紙を認めるような人が、ここまで字を知らない事があるだろうか。
小さな違和感ではあったものの、一度気になり出すと途端に気になって仕方なくなる。そこで一度、誤字を訂正せず、誤字の読みのままで文章を読んでみたり、誤字だけを抜き出してみたりするも、特に意味のある行動とは思えなかった。
気のせいだったかと諦めて、今度こそ手紙を閉じた。私は気付かなかった。誤っていた字はどれも、「なくなる」意味を持った字だった。
その翌年のことだった。私が、事故で両目の視力と利き腕を失ったのは。
テーマ:10年後の私から届いた手紙