テーマ『たった一つの希望』
『人生なんて、いつだってどん底だ』。彼がこの口癖を言うたび、わたしは「そんな事言わないでよ」と、自分より高い彼の背をパシリと叩きました。
幼くして両親が死に、親戚中をたらい回しにされてきた彼にとって。人生とは、誰とも心を通わせられない寂しい時間なのかもしれない。それでもわたしは、彼に笑ってほしいと願ったのです。
お見合いで結婚し、一緒に暮らし始めた当初。彼の言動の意味が分からず、わたしはいきなり戸惑いの日々を過ごしました。
何が食べたいですか、と聞けば「なんでもいい」。どかたの仕事が終わる時間になってもなかなか帰ってこず、ようやく帰ってきたかと思えば酒に酔って顔が赤くなっている。どこに行ってきたのかと尋ねると「散歩」。
こちらが親睦を深めようとしても、彼の方から避けているように見えました。でも問いただすには、まだ心の距離が遠すぎる。わたしは彼にも何か思うところがあるのだろうと、ひたすらに彼を観察し続けることにしました。
日常生活に会話はほぼありませんでした。必要最低限「醤油を取って」だとか「着替えはどこだ」とか、そういうものばかり。ただ……幸いなことに彼は、表情に出やすいタイプだったわね。
嬉しかったり、少しでも心が上向いた時は、左の眉がピクリと上がるの。
わたしはそれを「眉毛アンテナ」と勝手に名付けて、メモ帳にアンテナの反応を書き記しました。
一ヶ月もすれば、気づけばメモ帳は半分くらい埋まっていて、彼のことも少しずつ分かり始めてきたわ。
まず、好物は白米。試しに水加減をあえて間違えてみたら、明らかに眉毛アンテナがしょぼくれて垂れさがっていたの。もちろん、彼にはアンテナのことは内緒よ。
あと、夕食に肉料理を出すと喜んでいたわね。仕事前に「今日は豚の角煮ですよ」と言った夜は、珍しく酒を飲まずに帰ってきたんだから。
「今日は、散歩はいいんですか」と訊けば「雨が降りそうだったから」と言って、いそいそと作業着を脱ぎ始める。窓の外を覗くのは辞めておいたわ。
そんなこんなで、二人での生活が二ヶ月を過ぎた頃。土曜日の休日。朝の洗濯を終えて、お茶でも飲もうかと台所へ立っていると、彼が来てボソリとこう言ったの。
「……散歩、行かないか」。
突然のことで、わたしはあんぐり口を開けてその場で固まったわ。すると彼は、わたしの方を見ながらフッと笑って「のどちんこ、見えてる」ですって。
赤面するわたしに、彼はまたフフッと笑いながら「外で待ってる」と台所を出て行ってしまった。
彼の生い立ちを聞いたのは、この日の散歩で一休みしたベンチでのことでした。
何も言わないのに徐々に自分の好物を覚えていく嫁に対して、『こいつに隠し事はできない』と思ったらしいのね。
「妖怪悟りみたいだ」と言われたから、「そんなわけないでしょう」とむくれると、今度は「失敬、ふぐのお化けだったか」と茶化される。
どうしようもなくなったわたしは、ついに吹き出して笑ってしまった。つられて彼も笑ってた。
あなたが初めてクシャリと笑ったのを見て。……わたしはとても、満ち足りた気持ちだったのよ。
──昨日のように思い起こされる日々。しわしわになって細くなった旦那の手を握りながら、わたしは「あんなこともあったわね」、「こんなこともあったわね」と、意識も朧気な彼にずっと、何時間も語り続けました。
時々、眉毛アンテナがピクリと反応する……気がするのは、わたしの目の錯覚かしら。
最期は住み慣れた自宅がいいと、老いてから彼は度々言うようになりました。
何か嫌なことがあるたびに言っていた「人生なんて、いつだってどん底だ」という諦めの言葉は、いつの間にか「お願いだ、俺より一日でいいから長く生きてくれ」という願いに変わっていったわね。
「いいですよ」と、わたしは笑顔で応えました。
彼は子供の頃から、たくさん寂しい想いをしてきたんですもの。だから最期くらい、独りになんてしたくないって。そう、思ったんです。
子供には恵まれなかったけれど、わたしはあなたと一緒にいられて幸せです。
もう聞こえないかもしれない彼の耳元で、わたしは何度も何度も囁いたの。
──わたしに、心を開いてくれてありがとう。わたしに、笑いかけてくれてありがとう。わたしと生きてくれて……
不意に、彼の口元がもごもごと動くのが見えました。
「ありが……とう。幸せ、だったよ……」
小さな、小さな声だったけど、わたしには確かに聞こえました。
最後の力を振り絞って、彼はにこりと笑いかけてくれた。
わたしも、彼の手を頬に当てて、視界がにじまないようにぐっとこらえながら
「こちらこそ。……ありがとう」
体温がなくなるまで、わたしはずっと彼の手を握り続けていました。
テーマ『欲望』
今日の夕飯は、大好物のビーフシチューだった。
米とブラウンルーを自分好みの配分で口に運び、咀嚼する一回一回を味わい尽くす。これぞ至福の時間。柔らかく煮込まれた牛肉が玉ねぎの甘さと絡み合い、じゃがいもの舌触りはクリームのよう。すべての食材が調和した最高の一皿だった。シェフ──もとい母は俺の表情から息子の食没を察し、さっきからニヤついているが今はそんなことを気にしている場合ではない。とにかく、嗅覚と味覚と舌触りに全神経を集中させるのだ。
……気づくと、皿は空っぽになっていた。
そんな馬鹿な。あんなに大切に味わったというのに、もう終わるというのか。視界が眩む。鍋の中はもう空になっていた。五回もお替りしたのだから当然だ。母が食器を下げようと腕を伸ばす。俺は反射的に自分の前に置かれた皿を庇った。
「……いや、まだだ!」
「なにがまだなのよ」
「この皿にはまだ、ビーフシチューの意志がこびりついている!」
「あんた、まさか……」
「あぁ、そのまさかだ」
禁忌であることはわかっている。だが、今の俺にはこうしないではいられないのだ。俺は皿を顔面へと持っていき、舌を思い切り伸ばして最後の残滓すらをも舐め取ろうとした。
「やめなさい、行儀が悪い!」
皿はあっけなく母に奪われてしまった。
「あ、あぁ……俺の、最後のビーフシチューが……」
「また作ってあげるから、楽しみに待ってなさい」
母が手際よくを洗い始めた。茶色い油汚れが落ちる様子を横目に、俺は後ろ髪引かれる思いでとぼとぼとリビングを後にする。
そのとき、シェフ母が俺の背中に向けて天啓を授け給うた。
「明日の夕飯はお好み焼きよ」
「ひゃっほーい!!」
ビーフシチューは過去のもの。明日のお好み焼きへ向かってさぁ行くぞ!
右の拳を振り上げ、俺は意気揚々と自室へ戻っていった。