小学生の頃、近所にガーデニングが素敵なお庭のある家があって、その庭先でモンシロチョウが羽化するところを見せてもらったことがある。
時間をかけてもがきながら、蛹からゆっくり手足を出して、想像よりずっと大きい羽根を伸ばすさまの一部始終を見た。なんだか痛そう、って思った。そうやって生まれ直したあとも、しばらく動けずその場でじっとして、意を決したようにふわっと飛んでった。わたしたちが生まれるとき、お母さんは色んな辛さに耐えてくれたけど、わたしたちもきっと痛かったし、怖かったと思う。歳を重ねても、今の自分じゃ環境じゃいられなくて、痛みを伴いながら変わらなきゃいけないときなんて、いつもある。形を変えるってすごいことで、新たな自分で飛び出すって、とても勇気がいることだ。でも、やらなきゃ。そういうときに、あのモンシロチョウを思い出している。
今から四ヶ月前、私は二人だった。
命が宿る前だった、と慰めのためにみんな言う。ちゃんと器ができてから、そこに魂が宿るのだから。だから、喪ったわけじゃないんだよと。そうなのかな。でもね、たった7週間、だけども7週間、わたしのなかで生きていたんだ。1日ごとに、形を変えて、少しずつ大きくなって、ひとつずつなにかを作って。
だからね、あのときの、かけがえのない日々のなかで、私が何を思って、何を感じながら生きていたか。どんなふうに世界が見えていたか。かけがえのないあなたと一緒に。二人だけの大切な秘密。
人生で2回目のあの忌々しいウイルスに罹患。だんだん範囲の広がる咽の痛みと、当然のように出ない声、地獄のような咳、だるさや息苦しさ。苦しすぎて仰向けになれないことにはさすがに困る。医師からはとりあえず休息第一、そして栄養摂取と。ようやく和らいだのが5日目である昨日。抗生物質よ、君やっぱすごいね。納豆チャーハンを作る余裕も出てくる。
今の私の感性でいくと、生きること=わたしを営み続けるために必要なこと、すなわちご飯を食べること、そして寝ること。
納豆チャーハンは病み上がりには不向き、そのうえ味付けに失敗して半分も食べれなかった。生きることは、美味しいご飯も美味しくないご飯も食べること。自分の選択で、そのときの状況で、心情で、美味しくも不味くもなる。
かれこれ5時間ベッドの上で眠気の誘いを待っている。すやぁとスムーズに寝れても、ここ1年は2時間ごとに起きてしまう。生きるってほんと大変、睡眠ひとつをとっても。それでも繰り返す、営み続ける、なぜって。なぜだろうね。美味しいご飯を食べれる日が、ベッドが暖かく迎えてくれる日が、あるからだねきっと。
原因探しとか犯人探しとかってさ、糾弾しているさまを、もしくはその内容を目の当たりにすることで慄いたり傷つく人もいて、わりと関係のない周りの人もまとめて斬りつけることあるよなあ。ちょっと通り魔みたいなとこあると思うよ。善悪ってなんだろうね。
あの人のこういうとこは良くないね、それ比べてあなたは、みたいに、目の前の人に労いをかけるために、またある一方の人を生贄に出すとか普通にあるんだよな。
良くない、と非難する気持ちは自分のなかの正義で、誰かに認めてほしくなるけど、せいぜい自分か自分の大切な人だけ知っておけばよいんだって、そのどちらかを守るときだけに出せばよい伝家の宝刀くらいに、思っておこうとおもうよ。
失敗した、と思う。そうしていつも自分を見失う。ちょっとしたきっかけで軸から外れ、所在なく右往左往する。よく分からないまま、落ち込みながらももがくうちになんだか着地する。
そうしてすべて終わったあと、見上げてみたそこに、何が見えるだろう。見てきただろう。
そうだ、そんなに悪くない。良い景観なんだ。ちらちら舞う桜の花びらも、心地よい風も、それで、明るくて優しい色合いの若葉も。こうありたいと自分に願ったことを成し遂げられずに、落ち込むことも多いけど、桜が散るのは自然の摂理。だから流れに身を任せてきっと良い。