物憂げな空
少し錆びているカーブミラーと白いガードレールだけがある、高架下の寂れた分かれ道。
早朝に散歩するのが趣味だった私の、お気に入りの場所だ。ずっと静かで、人がいるのを見たことがない。
いつも薄暗く、たまに霧がかかる。それが神秘的で、隠れ家のようだった。
今日も歩く。いつもの日常だ。重たい灰色の雲が空を覆っている。高速道路が上にあるため、風と共にゴォゴォと響くような音が聞こえる。
そのうちカーブミラーの頭が見えてくるので、少しだけ早く足を進める…と、風の音がだんだん聞こえなくなってくる。
ああ、この静けさ。これが私の大好物なのだ。この澄んだ冬の匂い、冷えた空気を肺でゆっくりと吸い込む。いつもの安心できる居場所で、正直に息ができる朝5時、私は満ち足りていた。
…ガードレールの下から覗く足を見るまでは。
靴だった。
土を被っているローファー。
その続きに、黒と白の縞模様の靴下と、白い肌が見えた…あたりで、私はもう逃げ出したい気持ちでいっぱいになった。
目を逸らそう。何も見なかったことにしよう。警鐘が鳴り響く頭の中、必死に自分にそう言い聞かせ…
来た道を戻ろうと決意し、その先も見ず振り返った。
「アンタ、こんなとこで何やってんスか?」
…その目の前には、少女が立っていた。
切り揃えられたショートヘアだ。
あまりの驚きで、思わず叫んでしまう。
「うひゃっ、うるさぁー」
少女は表情をコロッと変えて、わざとらしく耳を塞ぐ仕草をしてみせた。 シックな色のネクタイが揺れる。近くの学校の制服だ。
「き…君だって、どこの誰だ。いつからいたんだ」
混乱しながら反射的に聞いたものの、声が裏返った。
何スかその声、と笑いながら彼女はつづける。
「あははっ、ジブンすか?…ジブンは… えー…」
それまで騒がしかったのに、急に口を噤んだ。それから少し間をおいて、「…えっと…わかんないっす」と小さく呟いた。俯いて、彼女は靴先で地面を擦る。
「うぅーん、たしか…なんかを探してて…」
彼女が悩んでぶつぶつ言ってる間に、私はだんだんと冷静になってきた。
そして、自分の背後にあるモノを思い出し……
脳裏に、嫌な可能性が浮かんだ。
例えば、もしこの少女の探し物がお友達だったとしよう。 ……それで、考えたくはないが、もし…背後のアレが、死体で…その友達だったとしたら……
人通りも、車も、監視カメラだってないこんな早朝の田舎道だ。私が疑われるのは間違いないだろう。
彼女がガードレールの下を見る前に、ここから離さないと…
「…すんませんけど、一緒に探してくれません?たしかこの辺にあったんすよぉ…」
そんな私の考えはお構いなしに、困ったような、甘えたような声でそう頼んできた。
風が吹いた。彼女の髪だけが動かなかった。
「どうしてこの辺だって分かるのか、っすか? …ジブンでも謎っす。『何かを落とした』ってのは覚えてるんすけど…」
どうも記憶が飛び飛びで…と首を傾げ、頭を掻きながら周りを見渡している。
頼むから私の背後は覗き込むなよ、と心の中で祈りつつ、(探し物ってのは、友達ではなかったのか)ということに少しだけ安堵した。
依然ピンチなのは変わりないが、その落とし物を一緒に探す体で、この場から離れるのはどうか…と考えついた。
「いいよ、私も一緒に探すよ… 手始めにさ、こっちの分かれ道に行かないかい?」
「マジっすか!あざーす!…でも、なんでこの道なんすか?」
またコロッと変わる表情。仕草の一つ一つも綺麗だ。
カーブミラーに、重たい雲がゆっくりと流れていた。
「ああ…キミのその制服、この先にある中学校のもんだろう?」
特に考えてはいなかったが、彼女のネクタイを見てそう説明した。咄嗟にしては、いい理由を思いついたもんだ。
「ん…そうだったんすかねぇ?なら、この道…案内してくださいよ」
やや歯切れの悪い返事だが、彼女の足が右に向きはじめた。よし、これで離れられる。よかった。案外上手くいった。
私もカーブミラーの真下からやっと動けて、ガードレールに沿いながら歩き始めた。
側溝は見ないようにしよう、と目を斜め下に逸らす。
すると、不意に自分の靴と…横を歩く彼女の靴が視界に入った。 私は言葉を無くす。
…つま先に、土が付着したローファーだ。
中々見ない、黒と白の縞模様の靴下。その続きから少し見える、白い肌。
「あはは。もー、どこ見てんすか?
早く探しにいきましょーよ」
そう微笑む少女の、少し長いスカートが揺れる。
物憂げな空に、良く似合う黒髪だった。
小さな命
わたしの友達は、みなそろって犬や猫や鳥など、自慢のペットを飼っていた。
放課後に皆と帰ると、毎日のように犬が芸を覚えただとか、猫が甘えてきただとか、そんな話が始まる。
…そうなるたびに私は、そっと列より後ろに移動しては、いつもと同じように、校舎裏の柵から飛び出ている葉を数枚千切っていた。
少し柑橘の良い香りがする、特別綺麗な葉っぱだ。
もちろん誰にも見せずにポケットに仕舞う。
家に着いたら、すぐ靴を脱いでそのまま自室に向かった。わたしの愛する、小さな命の為に。
教科書やノートが散らばった机の端にある虫籠、それを開けた。でも少し古いもんで、かたり、と固い音がした。
緑の蓋と透明なケースの隙間から出てきたのは、わたしの小指ほどしかないアゲハ蝶の幼虫。
もう数日前に脱皮は済ませていた。だから、黒と白のかっこいい保護色から、鮮やかな緑と目に見える模様に変わっている。採れたての葉をやると、ふにふにと動く。愛らしくって堪らない。
ここ何週間か、わたしはこの子の世話をしていた。
毎日、同じ場所から同じ葉を取ってくる。同じ時間に与えて、同じ時間に観察する。
わたしが自室以外で何をしようが、何をされようが、この子には関係がない。この子はいつも、同じ調子で私を受け入れ、出迎えてくれる。
そんな変わらない私の日常が、心底愛おしかった。
…でも、今日はいつもと違った。葉を食べない。動き回るだけだ。
私が横で宿題をして日記を書いて、ずうっと付きっきりでいたのに、とうとう食べることはなかった。
考えたくはないが、もし、もし蛹になろうとしているならどうしよう。そうしたら、この子が変わってしまう。姿が変わって、ご飯も住む場所もいらなくなって、用無しになったわたしの元から飛び立ってしまう。それは嫌だ。
…どうして? と頬杖ついて問うても、当たり前に返事はない。もしこの子が犬だったならワンワン、猫ならニャアニャア、鳥ならピーピーと返事しただろうけど、 あいにく、わたしは幼虫のことばを知らない。
気がつくと、私はどこかにいた。がらすみたいな床だ。
「…これはね、ぷらすちっくだよ」
どこからか底抜けに明るい声がする。誰だろう。
「なんと、たべられないんだ」
そんなのしってるよ。わたしにだって分かるもの。
不意に下を見ると、つぎは緑の葉っぱで埋め尽くされていた。あの柑橘の匂いがする。…レモンの葉か。
「こっちは、たべれるよ」
……そんなの、普通は食べないよ。お腹壊すし。と、すこしぶっきらぼうに答えた。
「そうなの。 おいしいのになあ」
声が少し、悲しそうに聞こえた。
わたしは他人の感情を読み取って反応する…というのがいちいち面倒だから、よく疎まれることがある。
…でも、もしかして…こいつは傷ついたのだろうか。ならこういう時、なんていうんだろ。謝る、とか?
わたしには珍しく他人の為に考えて、考えて、なんとなく考えが纏まりかけたとき、後ろからぱり、ぱり、と音がした。
「ほらね。おいしい」
……食ってる?マジで?
おいしいんだ。ええ。その奇行に驚きと、なんだかやばい人なんじゃないかと今更怖くなってきて、軽く混乱してくる。そんなわたしの耳元で声がした。
「ふふ。いつも、きみがくれるじゃない」
それを聞いて振り返っても、もうなんにもなかった。
「たまには、ぼくだって、きみにおしえたくてさ」
そいつは最後に、そんなことを言っていた気がする。
気がついたら、目の前に見覚えのある木目があった。私は机に向かったまま寝ていたらしい。窓が空いていて、月明かりと共にぬるい夜風が差し込んでくる。
手の上には、緑の葉っぱが1枚だけ乗っていた。籠の中は空っぽ。あの子はいなかった。
あの子は羽化して蝶として飛んでいったのか、それとも外に落ちて芋虫として死んだのか、わからない。
硬い葉の感触と共に、柑橘の匂いが口の中に広がる。
小さな命の代わりに残ったそれを、わたしは食べた。