愛情、ってあなたいきなり…
執着だの性欲だのの夾雑物を外していくと、ひょっとしたら普通は何も残らないかもしれない。
そこでどんだけ大きなものが残るかが、その人の偉大さなんだけど、でもそれはでっかい無味乾燥になりがち。
むしろその夾雑物が、だらしなさそのものなので当事者には厄介だけど、他人事で見ればヒトという種の面白さなんだと思う。
(もちろん、本質はまったく別ものです。)
太陽の下でって、今はもう熱中症のイメージしかない。
昔なら夏の浜辺とかで健康的な何かだったんだろうけど、今の気候は凶暴なので、うっかりイキってぐずぐずしてると、熱中症になって救急車呼ばれたりして、そのまま後遺症も残りかねない。
太陽の下なんて全力で避けるべき自殺行為だし、同調圧力で炎天下で何かをさせる無責任な組織は、全力で拒否ですよ。
涼しい風がとおる明るい木陰で冷たい麦茶ですね。
(そうそう、暑い屋外でビールも、汗がべっとべとになります。)
もう考えただけでも、嫌だ嫌だ。
落ちていくときの下腹部から胃にかけて、内側からゾワゾワッとなる感覚、楽しい。
あれは落ちていく時にしか出てこない感覚なので、落ちながら、おっ、しっかりゾワゾワしてるっ!とか、そこを楽しんでる自分もいるんだけど、たぶん身体の方では落ちるのもゾワゾワも楽しくなんかないはず。
あれ、身体のどこが反応してゾワゾワするんだろうと考えたんだけど、映像や夢でも落ちそうになる場面ではちょっとゾワっとなるので、どこがが無重力を感じたり、視覚に反応したりするわけでもなくて、けっこうメンタル主体なのかも。
神を殺して人間を超人にしたのがニーチェなら、夫婦を超えようとした星野源は何を殺すのだろうか。
「在る」ものは無くなるので、永遠に在るものも無くなる。とすれば、永遠はものではなく、ものが生じる背景の場、無にしか適用されないものなのかもしれない。
しかし、永遠の無というのも、字面を短絡的に見れば残酷。