冬になったら
夕立ち。入道雲が見えていたから来るとは思っていた。が、傘を買う前にだいぶ濡れてしまったので、もういいか、とあきらめて帰宅した。
門扉を開け中に入る。家の隣には道場がある。父が祖父から継いだ剣道場だ。普段は警察官として働いて、時間のある土、日に剣道教室を開いている。
何かの音がした。短い音。きっと非番の父が道場の庭先で素振りをしているのだろうと思った。
一刻も早く、濡れた制服を着替えようと家のドアに手を伸ばした。その時、何か違和感を感じた。
いつもと音が違う。素振りの音。雨の中の素振りだからだろうか。無性に気になって、着替えもせずに庭に向かった。
裸足に稽古着、雨の中でも伸びた背筋。いつもの後ろ姿。そう見えた。だが、一步近づいてすぐ、今まで感じたことのない異様な緊張感があたりを包んでいるのに気づいた。
父がゆったりと得物を振り上げた。そこで違和感の理由がわかった。
真剣だった。鈍い銀色の輝きを帯びて雨を受けている。よく見ると、鞘は少し離れた地面に無造作に転がっていた。
時が止まったかのような上段の構え。実物の体よりも大きく見える。上段の構えは相手にプレッシャーをかけ威圧する効果がある。だが目の前の父からは、そんなものはまったく感じなかった。ただ静かだった。
雨が斜めに流れた。突風。その瞬間、刃が消えた。いつの間にか振り下ろされた両腕。錯覚、だろうが、遅れたように短く高い音が鳴った気がした。いつもの竹刀とは違う音。
父はまた上段の構えに戻った。そして光のような一閃。が、今度は元の構えには戻らず、そのまま横にないだ。ひとつ、ふたつ、みっつ。 静かな、美しい剣閃だった。
声も出ず見とれていた僕に、父が気づいた。
帰ってたのか。
うん。
傘、忘れたのか。ずぶ濡れだぞ。
そうだけど……。父さん、それ本物?
ん、ああ。本物だ。じいさんの形見。
じいちゃんの?そっか。
初めて間近で見る日本刀。思ったよりも小さく見えた。
なあ、父さん。もう一回振ってみて。近くでみたい。
そうか。じゃあこっちに来なさい。
僕は頷いてそばに寄った。
行くぞ。
さっきと同じ構え。たが近くで見る分、さっきよりも緊張感が増した。
父の視線。曖昧な視線ではなく、何かを捉えている。猛禽のような目。
一瞬で振り下ろす。
ハッとした。何か、父は何かを切った。わからない。何だ。何が切られた。
続けて、銀刃は左から右、横一閃に走った。短い高音を鳴らしまた何かを切った。返す刀で逆一閃。
まさか……。そんなことがあるのだろうか。
静かな呼吸のまま、体を中段の構えに整えた。無駄のない動き。残心さえも竹刀の時とはまったく違って見えた。
父さん、もしかしてなんだけど。
なんだ?
まさか、雨粒を狙って切ったの?
父が驚愕の顔を見せた。
見えたのか。
いや、ハッキリとは。でもそんな感じがした。
そうか……。
なあ、父さん。僕にもやらせてくれないか。
父の鋭い視線が僕を射抜く。だが、僕も目を逸らさなかった。
身をさらしたままの日本刀を、父が無言で差し出した。僕も無言で受け取り、そのまますぐ、構えをとった。
重かった。さっきは小さいと思ったのに、実際に手にとってみると、構えを維持することしかできないのでは、と思うほどに感じた。
このままでは駄目だ。
頭の中で、さっきの父の振りを思い出す。そのイメージを四肢に伝え、全身に号を発した。
振り下ろした。いや、振り降ろした、と言うべきか。重量に任せて腕がついていっただけ。雨粒を切るなんてどころじゃない。棒が落ちただけだった。
もう一回。
父を見ると、 黙って頷いた。
それから、10、20と振ってはみたが、いつもの竹刀のようには振れなかった。
いつの間にか、涙が滲んでいた。
ストップ。今日はもう終わりだ。
父があっさりとした声で制した。僕は刀を握ったまま、力無くぬかるんだ地面にへたり込んだ。
まあ、最初はこんなもんだ。
父は僕の手から刀をとって、鞘に納めた。
父さん。次、次に雨が降った日、また振らせてくれないか。
駄目。
どうして。
焦るな。今は基本の繰り返し。そっちのが大事だ。もし次の雨の日に、お前が雨粒を切れたとしても、俺は全然褒めないぞ。ただの空虚なまぐれだから。
まぐれ、という言葉に些か反応してしまい、キッ、と父を見てしまった。
そう睨むな。基本を疎かにする者は大成せず、ってな。……そうだな、じゃあこうしよう。今のお前じゃ、どうやったって雨粒は切れん。だからもっと鍛錬して、まずは雪を切れるようになれ。
雪を?
ああ。雪の方が落ちるスピードは遅いからな。でも雪ですら今のままじゃ切れないぞ。
だから今は力を貯めろ。冬が来たら、またこいつを貸してやる。雪を切れたらその時は……。
……まずは雪、か。
冬が来るまでに、あと何万回、素振りができるか。
立ち上がった。僕は剣士だ。地面に座っているわけにはいかない。
はなればなれ
東都シンフォニーホールは、千秋楽の夜も満員御礼だった。
演目は『偽王』。権謀を蜘蛛の巣の如く編んでいき、政敵をことごとく搦め捕ってきた。ついたあだ名が毒蛇。その毒蛇と、はなればなれに生きてきた息子が、同じ選挙区の対抗馬として打って出る。父子、絆断つ戦い。
連日のホールの盛況の理由は、熟練の実力派が集結した、というだけでは無かった。毒蛇と息子。それを演じるのも、長年の不和が報じられていた本物の父と子であった。
まさに『偽王』のふたりそのもの、メディアが色めき立って報じた。
照明が舞台を静かに包む中、息子の仲間が、親子の争いを気遣う声をかけた。
「構うな。毒蛇は俺が討つ。討たせてくれ。……頼む」
愛憎を抑えた静かな語り口だが、声の一言一言が観客の心を力強く掴んでくる。
舞台袖の暗がりに立つ父。
稽古中には気づかなかった彼の演技の深さ。役者として、自然と目が奪われていた。
まだ出番があるというのに、涙が一筋、静かにこぼれた。
いいのか、ちゃんと話さなくて。
長年、共に舞台に立ってきた友人が、そっとハンカチを渡してきた。
ああ、ああ、いいんだ。いいんだよ、これで。
ハンカチで拭えば拭うほど、涙が溢れてくる。
見てみろよ、あれ。俺の息子だ。俺の息子なんだよ。凄いだろ?なっ。
ああ、凄い。血、だな。千両役者の。ずっと会ってなかったのに。お前の演技そっくりだ。
父は、うん、うん、とハンカチを目元に当てたまま頷いた。
さあそろそろ出番だ。もう泣きやめよ。毒蛇がそんな優しい顔でどうする。
そうだな。
最後に力を込めて涙を拭いた。目を閉じてひとつ、深呼吸。ゆっくりとまぶたが開かれるとそこには、皺に老獪さを刻んだ毒蛇が現れた。
気合い入れて行って来い。
ああ、行ってくる。
つわものの視線を携えた父が、慣れた照明の光に向かって歩き出した。
舞台上では、血戦に挑む息子の台詞が続いていた。全ての観客が、彼の決意を漏らすまいと、夢中で見入っていた。
「なあ、友よ。もし俺の目が愛で曇ったときは教えてくれ。目の前の相手は毒蛇。父ではない」
「その通りだ、小僧」
ホール中に、野太い豪声が響いた。唯一無二、他の誰にも真似できない、彼にしか出せない声。さっきまでの息子の決意のきらめきが、跡形も無く一気に消し飛んだ。
「私もお前など知らん。礼儀知らずのヒヨコが何を喚くか」
「何を言う」
息子の視線が毒蛇を射る。
素晴らしい。
止めどなく湧いてくるその思いを必死で抑えながら、毒蛇は罵声を続けた。
子猫
にゃあ。
ニャア。
にゃあ、にゃ。
ニャア?ニャン。
にゃ~ん。
ニャ。ニャア。
にゃん。にゃ~ん。
ニャ。
たぶんね、と彼女が口を開いた。
《ママ。
なーに僕ちゃん。
抱っこ、抱っこ。
抱っこ?しょうがないわねー。
わ~い、抱っこ。
ハイ、こっちね。
うん。あったか~い。
ゆっくりとお休み。》
っていう会話だったと思う。
ふわふわの毛をくっつけて眠っている、猫の親子を見つめながら彼女が言った。
そうかな?僕はね、
《ママ。
なーに、僕ちゃん。
そろそろクリスマスだけど、サンタさん、今年は来るの?
サンタさん?そうねぇ。物価が上がってプレゼントの用意も難しいから、今年は難しいかもしれないわねぇ。
え〜。やだ~。最新のiPhone Pro MAX欲しかったのにー。
去年もらったばかりでしょ。我慢しなさい。
えー、ヤダヤダ。最新のじゃないと家出するってパパに言っておいて。
パパじゃなくてサンタさんにでしょ。》
だったと思う。
いやいや、あの短い会話でそこまで話したの?無理でしょ。
イヤイヤ、最近の子猫は賢いから。侮れないよ。
──みたいな馬鹿な会話を、子猫を撫でながら彼女としたい、木漏れ日の休日。
秋風
近所の大きなお寺の中を通った。おにぎり屋さんへの近道。
澄んだ空気が心地いい。広い境内では、色づいて落ちた葉をお坊さんが丁寧にほうきで掃いているところだった。「こんにちは」とお互い軽く頭を下げる。
境内を歩いていると、ちょうどお布施箱の前が空いていたので、手を合わせることにした。十円を入れて手を合わせる。このお寺は馬頭観音を祀っている。馬だけに、早く願いが叶うらしい。いまは特に何も思いつかなかったが、手を合わせるだけでも心の中に静かな安らぎが広がるのを感じた。
通りへ抜ける小路を歩いた。おにぎり屋さんは通りの向かい側。小さなお店なので、お昼時は外に行列ができる。今日は4人並んでいた。最後尾に並んだ。
買い物袋を手にした客が扉を開け、外の客とひとり、入れ替わる。扉が開いているそのわずかな時間、店内の香ばしい香りを、秋風が行列の僕たちに運んでくる。それが、「早く、早く」と、いっそう食欲をそそる。
暑く湿った空気の夏でもなく、寒さで震えながら待つ冬でもなく。少し乾いてほんのり冷たい秋だからこそ味わえる、この感覚。
地球温暖化の気温上昇で、秋が短く感じられる今日此の頃。秋風が届ける、この一瞬の時間が愛しい。
また会いましょう
帰り道。小さな石ころを蹴飛ばす。遠くまで飛ばそうと蹴ったが、ブロック塀にぶつかって思ったほど飛ばなかった。こんなことさえ上手くいかない。
連絡がきたそうだ。悪かった。また会いたいと。
結局自分は、その彼の代用品でしかなかったらしい。少しでも自分にチャンスがあると思ったのが情くなる。
もう恋はいいや。
心のなかでつぶやく。
風が吹いた。僕の肩を優しく撫で、黄昏の星影通りを抜けていった。ふいに、追いかけるように振り向くと、空に天使が浮かんでいた。その姿は、まるで光のベールに包まれたように輝いていた。白い翼がゆっくりと羽ばたき、金色の髪が風に舞っている。天使の瞳は深い青色で、まるで全てを見透かすかのように静かに輝いていた。
そんなこと言わないで。また会いましょう。
微笑みを浮かべながらささやいた。
──ってことがあってさ。
へぇ。
それで今また、恋をすることになった。僕と付き合ってください。
うん。いいよ。
やっぱり駄目だよな。うん。
いや、いいよ。
え?なんて?
だから、いいよ。付き合いましょ。わたしたち。
ほ、本当?やったあ。
ふふっ。喜びすぎ。
だってさ、付き合えると思ってなかったから。……ちなみにさ、さっきの天使の話、信じる?
信じる。
え、ホント?いや、信じてくれて嬉しいけど。今まで話した人、誰も信じなかったから。
だって私も会ったから。その天使。
本当?
うん。星影通りでしょ。本屋の側の。
うん、うん。
だから信じる。
そっかぁ。やっぱりあれは本物の恋のキューピットだったんだな。……よし。じゃあふたりで会いに行こう。
今から?
今から。お礼を言いたい。あなたのおかげでまた恋ができますって。嫌?
ううん、嫌じゃない。
彼女が手を差し出す。僕はゆっくりと握った。
会えるかな、あの天使に。
きっと会えるわ。そんな気がする。
黄昏の星影通りに向かってふたりで歩き出した。