0からの
スマホやPCを買い替えた時、使い方をまた1からの覚えなきゃな、と誰もが思うだろう。この場合、0から、という人はあまりいないのではないだろうか。
機種は違えど、スマホ、PCあるいはその他の電子機器等の経験が全く無いわけではない。その経験の分が、無意識に0とは言わせないということではないだろうか。
他にも、例えば似たような仕事に転職した場合も、また1から覚えます、という方が多いと思う。
こう考えると、たとえ再スタートのきっかけが挫折だったとしても、0からの、ではなく、1からの、と口にした方が、経験があるから大丈夫、と自分に言い聞かせ、心持ちがだいぶ穏やかになるのではと思う。
では、0からの、が常時そぐわない言葉かというとそうでもない。全く未経験のものの新鮮さを楽しもうと思えば、こちらのほうが良い。
新しい挑戦、新しい趣味、新しい街等々。未経験、つまり0からだ。だが決してネガティブなイメージはない。むしろワクワクが際立つ。
似たような言葉だけど、意識的に使い分けたほうが良さそうだ。
という話を年上の彼女にした。
私とはどっちなの。
どっちとは。
0から、それとも1から?
恋は初めてじゃない。当然ながら。では先の理屈でいえば1からが答えか。だが、声が詰まる。不安が喉を締める。僕はとんでもない過ちを犯そうとしているのではないか。
私は0から、よ。
そうなのか。
そう。1の経験、いらないから。彼女がきっと睨む。
なんで悩むの。必要なの?今までの女。
いいえ、と急いで答えた。僕も0から、です、と加えた。
ゆめゆめ忘れてはならない。恋はいつでも0から。いや、いつでもというか、彼女に対しては、という意味だと伝えたほうが良いか。いや、あまりしゃべりすぎるとかえってまずくなる恐れが。
さて、どうしようか。
同情
高校生の時、今でも覚えている小論文の問題文がある。
爆撃を逃れようと、子供を抱えながら家族で川を渡る写真。ベトナム戦争時に撮られた『安全への逃避』。沢田教一のピュリッツァー賞受賞作が載っていた。問題文はこうだ。
このカメラマンはカメラを置いて手を差し伸べるべきか、それともシャッターを切り続けるべきか。
今でもたまに考えることがある。難しい問だ。小論文は何が正しいかを追求するのではなく、論理的な文章を書ければそれでいいのだが。写真の引力に惹かれて、正解を求めてしまう。
当時は、すぐに助けるべき、という方向性で書いたように記憶している。若かったな。
いまは逆。究極のジャーナリズムは、ただ出来事を伝えること。極端に言えば、カメラにまかせて終わり。今なら、動画のライブ配信といったところか。
そこには誰の思惑も同情もない。事実のみ。それをどう受け止めるかは、見る者の自由、または責任。
こんなふうに考えるようになったのは、メディアの人間の醜悪さを学んだからだろうか。人の死や名誉を、自分達の良いように利用しようとする人間のなんと多いことか。
情報は刃物だ。扱う者は知性と覚悟がいる。情のみで振り回す幼児、あるいは幼児の如きメディアには任せるわけにはいかない。
しかしながら改めて、この小論文、本当に難しい。このカメラマンは、という問題文なら、前述の通りだ。だが、あなたなら、と問われたらどうだろうか。自分の名前を公表し作品の側で、人命よりもシャッターを優先したのかと問われた時、僕はどんな顔で答えるのだろう。
まだまだ正解は遠いな。これじゃメディアの人間に偉そうに言う資格もない。
枯れ葉
枯れ葉を見て詩的なことをいう人は、未成熟なロマンチストだと思う。
道に落ちている枯れ葉が邪魔なら掃いて捨てるだけだし、農家の場合は、腐葉土として再利用することもある。
目の前の枯れ葉を、終了した生命と捉えて空想に浸るのは、趣があって楽しいかもしれない。が、目の前に枯れ葉はあるのだ。それはどうするのか。空想で終わりなのか、集めて捨てるのか。そのままにするのか。
数年前、ある事故がきっかけで、地域全体で除染作業が行われた。片付けられたものの中には大量の枯れ葉もあった。枯れ葉は毎年のものだ。家の周りを何度も除染した人もたくさんいたらしい。
こんなことを知っていると、枯れ葉に空想を巡らせる気分には僕はならない。残念だけど。
今日にさよなら
帰り道で野良猫に会った。今までにも何度も顔を合わせている。こちらに敵意がないことがわかったらしく、逃げる素振りもなくなっていた。
ただ、今日は何かが違ったらしく、僕を一瞥するとすぐさま走り去っていった。
帰宅した。家では猫を飼っている。いつもは扉を開くとお迎えしてくれるのだが、今日は来なかった。探してみると、縁側の座布団で寝ていた。足音で僕に気づいたが、寄りもせずまた眠りに戻っていった。
夜。ベッドに入る。だいたい1時間ぐらいで布団に潜り込んでくるのに、来なかった。まあそういう日もあるだろう。
あるだろうけど。全く猫に相手にされないこんな日にはさっさとさよならしたい。あまりにも寂しすぎる。いったい僕が何をしたっていうんだ。ちゃんとゴミ出しもしてるし、赤信号だって止まるし、エレベーターで知らないひとに何階ですかってきいてボタン押してあげたし。それなのになんで今日は猫に好かれない。
総理大臣になろう。総理大臣になって日本も核をもてるようにする。アメリカとロシアが1700発ぐらいのはずだから、こっちは100万発作って、世界中に撃ちまくってやる。あっという間に、地球を滅ぼしてやる。ついでに月にも撃ち込んでやる。ただのついででだ。猫に好かれないこんなの世界なんてなんの意味もない。
朝。苦しさで目が覚めた。胸の上に猫が乗っかっていた。命拾いしたな、地球。今日のところは見逃してやる。
お気に入り
年に2、3回程度しかコースにはいかないのだが。
練習場ではとにかくドローボールを打とうと必死でドライバーを振る。ドローは、ラン、つまりボールが着地してから転がりやすいので飛距離が伸びやすい。反対にフェードボールは、スピンがかかって着地してから止まりやすい。どちらかといえば、狙ったところにボールを置こうという打ち方だ。
僕のドライバーは、ほとんどがフェードボールだ。ドローを打っているつもりなのだが。根本的なところで間違ったスイングなのかもしれない。
それでも、5回に1回はドローになる。手に残る感触も格段に良い。この感覚を忘れずに、いざコースへ。
とはいかないのがアマチュアゴルファーなわけで。実際にはいつものフェードボールがほとんどだ。もちろんドローの時もある。
だが不思議なもので、同じようにフェアウェイキープしても、フェードボールのときのほうが達成感がある。ドローはもちろん距離が出ているのだが、まぐれだなと心の声がこだまする。
結局のところ、僕のスイングはこういうものなのだ。ボールの弾道は決して美しくはないが、それでも240ヤード飛んでくれるから上出来だ。
まぐれ当たりも楽しい。が、お気に入りは、フェードボールのナイスショットだ。自分自身を感じられる。