狭い部屋
実家の階段の下にごく狭い部屋がある。収納場所といったほうがいいような空間だが、こどものころは懐中電灯を持って入り込んでお菓子を食べたり本を読んだりした。少しかび臭いそのごく狭い部屋は小学生が寝転がったり座ったりできる、誰も邪魔しにこない私だけの空間だった。この夏久しぶりに実家に帰ったのでその狭い部屋を覗いてみた。大人になった体には小さすぎる扉に半身押し込んで懐中電灯で照らすと、壁一面に大きく赤いラッションペンで書かれた「ズルイズルイ」と見覚えのない字。
失恋
これが恋を失うということなのか。初めて知った。初夏の空は暗くなりかけてそれでもまだ真っ暗ではない。私の心のようだ。私は大好きだった人を見つめる。度の強いメガネ、茶色っぽい癖っ毛、いつも少し笑っているようなくちびる。大好きだった。でも、もう、大好きじゃない。私は自分の心の変化に気づいてしまった。これが失恋なんだと思う。私は今日私の恋を失った。
正直
正直なところ正直なんてお題で書ける気がしません。
梅雨
梅雨どきは境が薄くなるのよ。すうすうと薄くなるあちらとこちらの境。ほら見て。川の土手を蛍が飛んでゆくわ。明日はきっと雨だから、こんなに蛍は見られないでしょう。今夜はこんなに綺麗だけれど。ねえ、あの蛍たちもこのすうすうと薄くなる梅雨どきの境を越えてきた子たちなの。あなたに会いに来たのかもねえ。うふふ。そうよ、私もあなたに会いに来たの。梅雨どきはあの世とこの世の境が薄い。あなたは私を覚えているかしら?
無垢
不思議な少年の名は秘す。彼の年齢は一万六千歳。私は彼を仰ぎ見る、ということはない、なぜかというと彼は案外チビだからだ。これをいうと彼は怒るが。チビなサタンの甥は指先で人間をひねりつぶしながら「みんな狂えば幸せなのにねえ」というが実際問題こいつはほんとの狂気を知らない。何にも知らないただ力強いガキであり、こいつこそは悪魔であり天使であり、これこそが無垢であろうと思うその指先にひねりつぶされてまた人が死ぬ。