桜を永久保存するプロジェクトがゴールを迎えた。
これで、いつでも桜を鑑賞できるという訳だ。
ところが、プロジェクトが達成されてからというもの、日本人は桜を見なくなってしまった。日本人は逆張りが好きなのだ。
――散るという概念を日本人のこころから拭い去った結果、我々のこころから桜は散ってしまったらしい。
届かぬ"想い"について、書き記そうと思う。
私は大学で産業心理学という分野を学んでいる。産業心理学とは、労働における人間心理を研究する学問だ。その中の一つに「コンフリクト」という概念がある。コンフリクトとは、英語で衝突を意味する。AとBが意見や解釈で対立することを比喩した言葉である。
コンフリクトは、職場、家庭、友人間、あらゆる人間関係で起こる。起こらない方が不自然なぐらい、起こる。コンフリクトが発生しない人間関係は、片方が極度に抑圧されている可能性がある。今回お話するのは、そんなコンフリクトのない人間関係である。
ある家庭があった。母、長男、次男の三人家族である。母は熱心な教育ママで、その想いが届いたのか、長男と次男は傑物に育った。長男は大手スポーツ製品メーカーに就職、大学サッカーの日本代表に選出されるほど優れた存在になった。次男は高校生で、全国模試二位の好成績を収めた。母の想いは二人の息子へ深く届いたのである。
では、逆はどうか?息子たちから母へ、想いは届いたのか?
結論から言えば、長男は届ける必要がなかった。「自分のことは自分でやる」というマイペースで鷹揚な人間であったため、母に何かしらの感情を伝えることもしなかった。一方、次男はというと、心の奥底に燻らせていたものがあった。教育の過程で次男は母から極度の抑圧を感じていた。ただ、それを母に伝えることはなかった。中学生の頃は受験という一大イベントを控えていたため、それどころではなかったのだ。
だが、受験が終わり、高校に入学すると、酷く鬱屈した気分を覚えるようになる。人間としての尊厳は、今の母から受け取っているのだろうか。そんな感情が芽生えた。
ある日、大学受験のことについて母に聞いてみた。
「ねぇ、母さん」
「なに?」
「大学受験、どうしようか」
「そら東大よ」
数秒間のやり取りで、次男は東大へ行くことが決まった。そして、母はこんな言葉を付け加えた。
「そのつもりじゃなかったの?」
母の意志は、自分の意志。その魂胆を次男は感じ取った。
自分の意志で何かを成すには?
母=自分の図式を崩すには?
このアバズレを、びっくりさせるには?
夜に次男は駆けた。
「15歳男子生徒が裏山で自殺――遺書は無し<東京>」
新聞記事に載った男子生徒の名前を見た母は、激しく狼狽した。身内が亡くなるという感覚。次男の訃報を受けても湧かなかった実感が、記事を見て心身が震えるほどに滲みた。なぜ?なぜ?その問いかけを反芻する母を、長男は傍から見て気の毒に思った。
長男も、弟が自ら命を断った理由を探すのに苦労した。何の因果があって死別に至ったのか、納得しようとしてもしきれない。どうして――
コンフリクト。
ふと、その単語が浮かぶ。大学で学んだ言葉を、口の中で何度も何度も繰り返す。コンフリクト、コンフリクト、コンフリクト・・・・・・。
ああ、そうか。自分たちは仲良しすぎたのだ。衝突を避け続けた先に、最大の衝突が待っていたのだ。
弟は、死でもって初めて想いを届け、コンフリクトを起こそうとしたのだ。だが、母に届くかどうか。想いの送り手が、受け手になれるとは限らない。