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5/19/2024, 2:31:25 PM

私は、突然の別れなんてしたことがあるんだろうか。

両親は普通に健在だし、友人はみな元気。ペットに関してはそもそも飼ったことがない。
というか、誰かと死に別れた経験が、私にはほとんどない。
色んな思い出をさらっても、わざわざ「突然の別れ」なんて題してことさらに書くことはない気がする。

とここまで書いて、私はひいおばあちゃんが亡くなったことを思い出した。小学校低学年のころの話だ。

私にとってのひいおばあちゃんは、長いこと入院しているひと、だった。小さい頃遊んでもらったこともあるらしいが、私はあまり覚えておらず、記憶にあるのはベッドに横たわる姿だけだ。
薄情なことに、私はひいおばあちゃんの葬式に参列したことすら、今の今まで忘れていた。忘れていたというより、ひいおばあちゃんの死を「突然の別れ」と思っていなかっただけのような気もする。

ひいおばあちゃんに関する記憶はほとんどない。
というか、そもそも小学校の記憶すら曖昧なのだから、物心ついた頃にはすっかり関わりのなかったひいおばあちゃんのことを忘れているのは、当然と言えば当然かもしれない。
それでも、ひいおばあちゃんについて結構鮮明に覚えているものがある。二つだけ。


一つ目は、親族でひいおばあちゃんをお見舞いに行った日のこと。
その時のひいおばあちゃんはもう目も動かせなくて、ベットに横たわって複数の管に繋がれていた。
くすんだクリーム色の仕切りカーテンをできる限り開いて、ベットの周りを皆んなで取り囲むさまは、なんだかお見舞には見えなかった。挨拶のようだった。

私がおばあちゃんの家に行く時には、必ずお墓参りをする。先祖代々のお墓に挨拶に行く。
代々と言っても、そこまで大きいお墓ではない。多分、家のお墓としては普通だと思う。
そのお墓を囲んで、各々がお水をかけてきれいにしたり、お花を変えたりする。そして最後に、みんなで並んで挨拶をする。
お墓参りにはどこか穏やかさがある。
件のお見舞いにその穏やかさはなかった。もっと切実な感情が充満していたけど、それはたしかに挨拶に感じられた。
ひいおばあちゃんは意識がないから、みんなが来ても反応することはない。それでも、大人たちに促された私やいとこは、ひいおばあちゃんに「来たよ」と声をかけた。
どちらも、返ってこない、もしくは返ってこないかもしれないと思いながらも話しかける。でも、病院ならより切実だ。もしかしたら唇が震えるかも。指がぴくりと動くかもしれない。
実際、そのお見舞いで、ひいおばあちゃんの瞼は少しだけ動いた気がする。それをおばあちゃんが喜んでいたような。そこらへんの記憶は曖昧だ。記憶の捏造かもしれない。

ただ、ただその時周りから感じた挨拶の感情が、当時の私をぐらつかせたんだろうと思う。

二つ目は、ひいおばあちゃんのお葬式で骨を持ち上げた時。
骨壷に移すときと言うんだろうか。骨を箸で持ち上げて、移動させた。私は小さかったから、父と一緒にした気がする。
あれはなんの骨だったのだろう。小さかった。
金属のプレートから骨を持ち上げた時、重みに少しびっくりしたのを覚えている。その時触れていた父の手の生温かさも。


そういえば、火葬の前に、ひいおばあちゃんの友人なのか、知らないおばあさんがすごく泣いていたのを思い出した。
人ってこんなに悼んでもらえるんだって思った記憶がある。当時の私は、おばあさんは泣かないものだと思っていたから、余計にそう感じたのかもしれない。
随分な感想ではあるけど。

だいぶ長くなってしまった。結局何が書きたかったのかは分からない。
私の死はかなり先だと思う(し、そうであることを願うけど)どんなもんなのだろう、私のお葬式。結婚願望もないのだが、やってくれる人いるだろうか…。
私のお葬式があるとしたら、友人だけに参加してほしい。友人の家で、私の死んだことを口実に友人たちで集まって、たこ焼きパーティとかしてほしい。
誰も泣く人がいないといいなとも思うし、でもちょっと泣いてほしい気もするから、お酒飲んでちょっとだけしんみりしてほしい。
そんで私は散骨されて、今この文を書く脳も何もかも、ATCGの配列すら分からないまでに分解されて、私だった炭素や窒素が全く知らない生き物になってたら嬉しいな。

それまであと何十年もあるはず!だから、明日も頑張っていきます。おやすみなさい〜