恋物語
大学生の頃、ある講義のレジュメに書いてあった
“あなたは恋文を書いたことがありますか”
その講義は、プレゼンテーションについて学ぶものだった
つまり、“言葉で伝える”ことを学ぶ
初回の講義の日、担当の先生から言われた“言葉”は
“僕の話を100%理解してもらえるとは思っていません”
その先生の名誉のために言うと
別に学生のことを馬鹿にして言った言葉ではない
私が以前目を通したレジュメにもあったと思うが
人が自分の考えや想いを伝えるとき
それを“言葉に置き換える”
でもその行為によって、そこに妥協が生じる
なぜなら、本来伝えたい考えや想いをいちばんしっくりくるであろう“言葉”に“置き換える”から
“言葉”に“置き換えた”時点で、その考えや想いは100%は伝わらない
“言葉で伝える”ことを学ぶはずの講義で
“伝えることの限界”を思い知らされる
そして
そんな切ないことを知ってしまっている先生が
今、どんな“想い”で教壇に立っているのかを“思う”と
もう“言葉”には未来も可能性もないんじゃないか、とさえ思えてしまう
あの時、あなたは本当は何を伝えたかった?
“言葉の限界”を“伝えることの限界”を知っているあなたは
それでもみんなに
“言葉で伝えられることの可能性”を伝えたかったんだ、と思って良いのかな?
私はあなたに恋をしていたわけではないけれど
きっとこれからも、あなたの言葉は忘れないし
“言葉で伝える”機会を得られるなら
その可能性に賭けてみたいと思うよ
そう、私はあなたに恋をしていたわけではないけれど
長い長い恋文のようになってしまいました
“あなたは恋文を書いたことがありますか”
真夜中
本当は仲良くしたいけど
戦わなければいけないときもある存在
本当はつらくて苦しいときに
静かによりそってくれる存在
誰にも見せることないであろう姿を
こっそり見せられる存在
誰にも話せない話を
何も言わず聴いてくれる存在
朝がくることを恐れている私に
少し時間をくれる存在
あなたにのまれないように
あなたと仲良くなれますように
愛があれば何でもできる?
お金があれば
時間があれば
カッコ良かったら
美人だったら
可愛かったら
勉強ができれば
スポーツができれば
才能があれば
センスがあれば
○○があれば
できない理由を探して
安心したいのかもしれない
多分、○○があってもなくても
何でもできる人はできるし
できない人はできない
愛は
やっぱりあっても、できないことはできないし
愛を盾にして
自分や相手をはかること自体
ナンセンスだと思うのよね