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9/4/2024, 6:49:15 AM

 ねえスレン、と呼ばれてスレンは外に出た。もうすっかり朝になり、軽く腹ごしらえを済ませたら放牧に出なければならない。戻ってきたら、丘向こうの実家とこの小さな家を行き来して、冬支度を始める。草原の秋は短く、冬が始まれば春は遠い。過ごしやすいこの時期に、しっかり準備をしておかなければならない。

「どうしたの」
「ねえ見て、あんなに雲が近いの」

8/31/2024, 4:14:49 PM

 はぐれ馬を探して旅してもう三日目になる。丘をいくつも越えあちこちさまよい、身体は疲れ切っていた。
 夜の気配が濃くなってきて、スレンは馬を降りて岩陰に腰を下ろした。今日はもう、ここで夜を明かすしかない。愛馬の前脚と後ろ足をロープで繋いで放すと、ひょこひょこ歩いて近くで静かに草を食み始めた。賢い馬なのでスレンを置いてどこかへ行ってしまうことはないが、ここまで来て万が一にでもこの馬ともはぐれてしまったらもうおしまいだ。
 ごろりと寝転んで伸びをする。秋の草原は春や夏よりも水分が失われ草も乾いていたが、それでも大地は厚く柔らかく太陽の香りがして、スレンの身体を受け止めてくれた。空には欠けた月が浮かんでいる。ぼんやり見上げながら、明日はどうしようか考えた。
 遊牧民であるスレンたち家族にとって、家畜は財産であり食糧であり、中でも馬は一番の友であり家族の一員だった。決して裕福ではない小さな一家は、一頭一頭を大切に扱ってきた。放牧の際に二頭はぐれてしまい、スレンが探しに出かけたのも当然のことだった。

「もうちょっと、近くで見つかると思ったんだけどなあ」

 ぼんやり呟くと、答えるように愛馬が尻尾を揺らした。笑って声をかけ手招きするが、相棒はつれない態度だった。それがいっそうおかしくて笑うと、ひとりの笑い声は夜空に吸い込まれ、岩に染みこんで消えてしまった。今頃家族は、にぎやかにかまどを囲んで夕食を食べている頃だろう。早いところ馬を見つけて、家に帰りたかった。
 スレンは両親とまだ小さな弟妹三人と暮らしている。上の姉は嫁いで家を出たが、スレンはまだまだ、跡取りである弟が十分に家の仕事ができるようになるまで、両親と一緒に生活を支えなければならない。家が懐かしいのは人恋しさだけでなく、自分抜きで仕事が回っているのか気になって仕方ないせいでもある。
 荷物の中から保存食と水袋を出した。からからに乾いた干し肉とチーズをかじって口の中で柔らかくしながら、とりとめなく思考は巡る。
 それでも、きっとスレンがいくら心配しても、両親は上手くやっているだろう。小さいと思っている弟や妹も、スレンの不在にむしろ張り切って仕事を手伝っているだろうし、あっという間に大きくなる。

 それなら、それならおれはどうして、いつまで、こんなふうに暮らしていくんだろう。

 どうしようもないことを考えそうになったが、水を飲もうとして一気に現実に引き戻された。水がもう残り少ない。どこかで補給しなければ、とうてい家まで帰れない。さてこの辺りに遊牧民の宿営地はあるのか、井戸はあるのか、それとも街があるのか。ずいぶん遠くまで来たのでよく分からないが、明朝丘の上からあちこち眺めてみよう。立ち上る煙の一筋でも見つけられたら運がいい。
 満たされないことを憂うより、日々を生き抜くことの方が優先される。生活は少し厳しくて忙しい方がいい。余計なことを考えなくて済むから。
 もう一度大地に横たわると、すぐに睡魔が疲れた身体に忍び寄ってきた。うとうとして最後にぼんやり見上げた空に、不完全な月がしらじらと浮かんでいた。