毎日教会に通っては祈りを捧げている。
私がキリスト教徒だからではない。キリスト教徒の両親のもとに生まれたからだ。日本には信仰の自由がある。だがそれはただの権利だ。皆生まれた場所でもともと信じられている仏教やら創価学会やらを信仰せざれるおえない。例え無宗教と言い張っていようと死んだら墓に入るんだろ?葬式は?そんなこんなでいつの間にか自ら選んでいない宗教にならうことになる。別に嫌なわけじゃないけどイエスキリスト様を知っているわけじゃないし何も信仰する理由が見つからないしそもそも信仰の気持ちがない。それでもまた今日も祈りを捧げている。だがその果ては?無なのか?
君の背中を追って駆け抜けた先は、暗闇だった。誰かの真似してもその人の人生を歩めるわけじゃなかった。その人にもなれない。目標をゴールだと思うな。目標は通過点ゴールは死。
真似で終わる人生じゃなくその人を超えろ。
どうしてこの世界はこんなにも汚いのか、
心を侵食され体を蝕む。善と悪の見境もつけれないほど落ちぶれていく。誰も見ようとしない聞こうとしない。何度言っても同じことを繰り返す。AIも人と変わらない時代になってきた。悩みも聞いてくれて即回答をくれる。じゃあ人に何が出来る。私に何が出来る…?これ以上この世界に失望したくないんだが。
過去を生きるのはこれで最後。
はじめまして。私と家族になってくれてありがとう。おかさあさんにさせてくれてありがとう。私があなたの名前を初めて呼んだのは出会ってすぐでした。あの時のことは今でも鮮明に記憶しています。。。20の時血の繋がりがないことを知り貴方とは疎遠になっていきましたね、、、。もっと早く言うべきでした。でもあなたとの思い出が1番あるのは私であなたもそうだと思っています。確かに私が産むことはできなかったけど、貴方と出会って一緒に成長して血の繋がり以上に濃い生活を送れました。もう私の先は長くないので遺書としてあなたに送ります。この手紙が届いた頃にはいないかもしれませんね。20年間親子でいてくれてありがとう。最後に「ゆめ」私の夢を叶えてくれてありがとう。世界一大好きです。これからの人生に幸あれ!