わたしの名は愛情という。
姓が愛で名が情、愛・情だ。愛情深い子に育ってほしいという想いをこめて名づけたと両親はいうが、たぶんネーミングセンスはコンクリートに詰めて東京湾あたりに沈めてきたのだろう。
街中で見知らぬおじさんが、誰かの娘を「じょうちゃん」と呼ぶ。わたしは「情ちゃん」と自分の名を呼ばれているのか、一般的な「お嬢ちゃん」の「嬢ちゃん」なのか、判断がつかずに困る。
ただ、そういうおじさんの声かけには得てして立ち止まらず、さっさと素通りしてしまったほうがよいことが多いのだと学んだ。
「おい愛情」とフルネームで呼んでくる同級生たちは、ストレートに無視している。わたしをからかいたいという下心が透けてみえているのだから、わざわざ相手にするわけがない。
つまんねーヤツ。
今まさにつまらない人間が、なぜか上から目線で他人を罵っているので、わたしは一人で勝手に面白くなっている。こちらばかり楽しい思いをして申し訳ない。陰口というものは、本人に聴こえるように言ってこそ価値があるのだろうと学んだ。
結局「愛ちゃん」と呼んでもらうのが一番無難なのだが、とりあえず友人と呼んでおくべき友人たちは、わたしの名前を見なかったことにしている。だから、わたしは彼女たちを友人と呼ぶべきなのか判断しかねている。
愛とはなんだろう。
両親から勝手に継がされてしまったこの呼び名は、わたしをますますほんとうの愛情から遠ざけていくばかりに思うのだった。
テストには、自分の名前を正しく書ければ点がもらえるという。
わたしはたまに愛から心を抜いて受情さんになってみているが、意外と気づかれないものだ。
愛に心はなくてもいいのかもしれない。
受け取る側がそこに心を感じないなら、礼儀正しく愛情なんて呼んであげる必要はないのだ。
(愛情)
どの道終点がないとわかっている迷路なら標識をみて立ち止まらなくてもよい。壁が綿菓子のような雲でできているなら、分解された雲を引きずりながら突き抜けていってもよい。
青空の道はいくら迷っても終わりが見えない、すれ違う迷子たちと挨拶をかわすだけの場所。
地上からみた空はあんなに自由に見えたのに、いざ来てみると何もない。ただ青いだけだ。点在する展望台からみえる地上の景色だけがきれいだ、望遠鏡にうつらない範囲はきっと今日も燃えているのだろうと頭のどこかでわかっていながら、わたしたちはそれを「なかったこと」にする。
「こんにちは。そろそろ昼休憩の時間ですけど、今日はどこでランチを?」
「わかりません。一度行ったきりの場所って、結局店名も道も覚えていないじゃないですか」
それはそうかもしれませんが、それでも私はふわとろのオムライスを食べに行くんです。迷路の住人はそう言って笑みをかえしながら消えた。あのひとは昨日食べたものをきちんと覚えているタイプなんだろう。
わたしはここに来てから、壁を引きちぎって雲ばかり食べている気がする。味はしないが腹はふくれる。綿菓子みたいだと思っていたのは見た目だけだった。
足元にひろがった、かつて青空だったものが迷路の床になってわたしを嗤っている。この場所をこんなふうに踏み固めたのは、わたしたち一人一人の罪かもしれなかった。
空の青さは誰かの流した血と涙が青かったからだ。
みんな傷口を隠しているから、その誰かが誰なのか知らない。
わたしの手足に巻かれた包帯のことも誰も知らない。
ただ、みんな出口を探しているのだろうと思った。青空の迷路を楽しむふりをしながら、瞳から空がこぼれ出ている。
(どこまでも続く青い空)
みんながあの子は優しいという。わたしもあの子を優しいと思う。実際それらはほとんど真実だったのだとあの子以外の誰もが言う、けれども嘘の欠片は瞳の奥で燃えさかる炎だ、灯火とよぶには熱すぎるあの日の炎は優しさなんかじゃなかった。
あの子にはいつも雨が降る。
土砂降りのなかで捨てられた子犬のような顔をしている、それでも負けないのは燻る炎がいつまで経っても消せないからだろう。
あの子の瞳が優しさしかうつさないようになってしまったら、その時ひとつの世界の終わりが来るのだとうっすら怯えている。あの子にすべてを背負わせることは酷だろうとうっすら思いながら、わたしたちはどこまでも心中する気で旗を降る。
善意に折られた願いが魔物になれば、望む望まないにかかわらず、それらは猛然としてあの子に牙を剥くだろう。優しさとはそういうもので、わたしたちの祈りは怪物と表裏である。これをあの子に差し向けてはならない。
瞳が赤いのはきっと泣いていたからでしょう。
強がりだと知っているから、黙して手紙を読む。
優しいあの子が泣きやめば、いずれ雨もあがる。
(鋭い眼差し)
例えば、
あのパン店のドーナツが美味しいとか、
道端の花壇に植えられた花の名前とか、
雨上がりの空に虹がかかったりとか、
雪が降ったあとに誰かが作った雪だるまとか、
この前買った推理小説が面白かったとか、
奥多摩の山奥の清流の音色とか、
誰もいない九月の日本海の砂浜の景色とか、
なぜか懐いてくる近所の家の犬とか、
そういう些細な幸せをあなたにあげたかった。
今ではないいつか、ここではないどこかで。
(ここではないどこか)
いつがそれになるかわからないけれど、きっとその日が遠くないことはわかるし、ひょっとしたらもう最後に会った日は過ぎ去ってしまったかもしれない。
二千年ばかり季節が巡れば世界のどこかで空から槍が降った日もあっただろうし、今日のことも明日のことも誰にもわからない。
あなたはきっと誰かの期待に応えるのが苦手なひとだろう。
世界のほとんどすべてがあなたの敵だった日、舞台の中央で静かに俯いて四面楚歌の合唱を聴いていた、その姿が最後になるならあなたらしいが哀しい。私は歌なんてどうでもよかった。あなたに会いたいというだけだった。
あの日のあなたの想いを忘れないひともいる。
それだけで歩んできた価値はある。
努力は裏切るかもしれない。
願いは届かないかもしれない。
あなたに付き纏う翳がそんなことを囁きつづけるなら、今日は佳い方に傾きますように。
(君と最後に会った日)